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◆大黒神島(おおくろかみしま)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「柱島」(昭和21.8)および同地形図「嚴島」(昭和22.6)を使用したものである

所在:江田島市沖美町畑(おきみちょうはた)・同沖美町岡大王(―おかだいおう)
地形図:江田島/厳島 大君/柱島
形態:海沿いから谷沿いに家屋が散在する
標高:数m〜
訪問:2022年11月

 

 能美島(のうみじま)の鹿川港より、南西におよそ4.3qにある島。
 町史によると、19世紀の初め頃まで無人島であったが、天保の大飢饉の頃から新しい農耕地を求めて能見島から移住する人が増えたとのこと。概ね白瀬川を境に、西側が畑村、東側が岡大王村の所属となった。大正中期頃からは、船で通いながらの農業が主体。米や甘藷・スイカ等が栽培された。最盛期には水田13町5反、畑12町6反。
 林産資源も豊富で古くから木材が伐り出されていたほか、大正以降には葉タバコ乾燥用の薪、戦時中は軍用の薪や炭鉱の杭木としても出荷されている。シダは家庭で焚き付けにされたほか、船底をたでるのに適した燃料であったため、農閑期に盛んに刈り取られ造船所や船の所有者に売られていたという。
 花崗岩も重要な資源で、明治以降継続して採石が行われていたよう。当時(平成元年刊行)で3業者が3箇所で採掘(※)
 また明治末期から大正初期にかけて、白瀬に岡大王尋常小学校の分教室が置かれていた。
 「黒島の地図」によると、北西から右回りに、津久志・長久保・菱毛・白瀬・王泊・二ッ浜・深浦・加利浜・宮城・流出・穂田・佐場床といった小字があることが分かる。

 資料『シマダス』によると、昭和35年人口22人。同62年に最後の1戸が離農した。平成15年には、米空母艦載機による夜間離着陸訓練施設を誘致する計画が持ち上がったことがある。

 先に挙げた小字のうち、過去の航空写真で農地と建物が見られたものは津久志・長久保・菱毛・白瀬・王泊・二ッ浜・深浦(これ以外でも農地やその跡地らしいものが見られる)。当初の予定では白瀬・王泊のみの上陸であったが、後日別の船により長久保・菱毛にも上陸することができた。
 いずれも荒廃が進み探索には難儀するが、それぞれ建物やその痕跡を確認することができた。なお二ッ浜の岬には別荘地が設けられており、遠景からもその家屋群がはっきりと確認できる。

※ 『シマダス』では4箇所(令和元年刊行)

 


写真1 島遠景(北側より撮影)

写真2 白瀬(左)・菱毛(右)遠景

写真3 浜からの風景(以下白瀬。白瀬川左岸側)

写真4 廃車

写真5 農地跡

写真6 小屋

写真7 白瀬川河口

写真8 車置き場

写真9 水田跡と倒潰家屋

写真10 別荘

写真11 廃屋

写真12 屋敷跡

写真13 屋敷跡の一部(以下右岸側)

写真14 屋敷跡

写真15 スロープ(以下菱毛)

写真16 河口

写真17 海沿いの平坦地

写真18 道

写真19 農地跡の石垣と道(左手前から奥)

写真20 遠景(佐場床)

写真21 遠景(津久志)

写真22 海沿いの風景(以下長久保)

写真23 倒潰建物

写真24 採石があった頃?の痕跡

写真25 船着場跡

写真26 遠景(以下王泊)

写真27 何かの建物と桟橋跡(カキ養殖場関連?)

写真28 護岸

写真29 小屋

写真30 石積み

写真31 農耕機械

写真32 農地跡

写真33 二ッ浜(北側)遠景(以下二ッ浜)

写真34 二ッ浜(別荘地)遠景

写真35 遠景(深浦)

写真36 遠景(加利浜)

写真37 遠景(宮城)

写真38 遠景(流出)

写真39 採石場

写真40 採石場

写真41 採石場

 

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