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◆松島(まつしま)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「下津井」(昭和22.5)を使用したものである

所在:倉敷市下津井(しもつい)
地形図:下津井/玉野
形態:海沿いの斜面に家屋が集まる
標高:数m〜20m
訪問:2021年11月

 

 下津井の大浜港より南に700mほどの場所にある島。港から島中央の鞍部付近にかけて家々が集まっていた。
 資料『シマダス』によると、平成27年2戸3人。平成30年より、分校校舎が下津井における魅力拠点の一つとして市により再生整備され、「旧松島分校」として利用されている。神社は純友神社。
 また市史によると、昭和60年32人、平成6年5戸(10人ほど)。学校は下津井西小学校松島分校および下津井中学校松島分校。いずれも平成12年に閉校している小学校分校は明治35年開設、昭和9年廃止。同21年再び開校し、平成元年より休校。
元文の頃(1736-1741)、岡山藩の家老に仕えていた尾崎八左衛門が火災に遭い、すべてを失った時に家老の命で下津井より移住したのが始まりと伝わる。半農半漁の生活で、もっとも人数の多いときは昭和25年頃の15戸103人。ほとんどが尾崎姓で、ほか佐上・早川が計3戸。すべて尾崎家の一族であった。
 資料『児島諸島及び石島の民俗』によると、尾崎八左衛門の子孫が尾崎・早川・佐上の3姓を名乗ったという。島は傾斜地で石も多い土壌のため、水田はなく僅かに畑があるのみであった。ただし近年は釜島に通い、戦後の入植者が残した農地で耕作を行っている。生活は漁業主体の半農半漁。漁撈では魚類やタコ・海藻類を獲り、収入は比較的多く生活は安定していた。
島内にある「青年井」は水不足に悩む島の青年(尾崎氏を中心とする)が昭和9年に作ったもの。島内の井戸は多少塩分が含まれているが、この井戸の水はおいしく、飲料水として用いられていた。生活物資の購入は下津井や吹上(ふきあげ:下津井の地名)、坂出などへ出向いたが、大正末期、島民資本の店が作られ日用品や米・味噌・醤油・乾物などを扱った。仕入れ先は坂出が多かった。店は島民に親しまれよく利用されたが、昭和18年頃戦争による物資不足等により閉店。純友神社は島の氏神。刊行当時(昭和51年)12戸で、尾崎9(屋号シンヤ・ノッケ・コニシヤ・コジマヤ・モシヤ・ウエノシンヤ・ニシテラノシタほか)・佐上2(テラノシタほか)・早川1(ゴーボレ〔またはハマグチヤ〕)。なおオモヤの尾崎氏は釜島に移住し、この時既に島を出ていることが窺える。

 現在も校舎や管理された堂宇(御大師堂)・墓地があり、集落内には複数の家屋が立ち並ぶ。堂宇の脇には島内の事業を記念した碑があり(写真10)、一つには「中防波堤並ニ東新防波堤増設/學校新建築及海岸通リ改善/右事業完成ニ努力ス/昭和二十五年五月 松島部落」、もう一つには「自家発電竣設 昭和三十年/海岸道改修 仝卅二年/学校井戸竣工 仝卅二年/中波止修築 仝卅三年/鋪装道路改修 仝卅四年/昭和三十七年建之」と記されている(/は改行)。墓地では尾崎・佐上のほか西屋・窪田といった姓(屋号?)が見られ、やはり尾崎家が多い。神社は島の北東にあるが、参道は藪に覆われている。島の西では、外部の人の別荘や「産砂荒神」とある小祠(写真24)が見られた。
 
訪問時は住民も滞在していることが窺えたが、お会いすることはなかった。

 


写真1 島遠景(南東側より撮影)

写真2 港から集落を望む。右は校舎

写真3 小祠

写真4 灯籠

写真5 小祠。「金神宮」とある

写真6 小祠

写真7 校舎

写真8 門柱

写真9 堂宇。左は「尾崎姓家系」の碑、右は尾崎八左衛門の墓

写真10 碑

写真11 墓地と港

写真12 墓地にて。地蔵

写真13 家屋

写真14 屋敷跡

写真15 道

写真16 屋敷跡

写真17 集落風景

写真18 集落風景。右の井戸は「青年井」

写真19 家屋

写真20 電柱札。「マツシマ分」「松島」と見える

写真21 神社参道にて。幟立ての石柱?

写真22 神社

写真23 何かの小屋の残骸

写真24 小祠

 

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