戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆六口島(むくちじま・むぐちじま)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「下津井」(昭和22.5)を使用したものである

所在:倉敷市下津井(しもつい)
地形図:下津井/玉野
形態:本文参照
訪問:2021年11月

 

 下津井港より南西3q弱にある有人島。定期船はないが、島内の民宿の送迎船を利用することで上陸が可能(※)
 最近の地形図では北西のくびれ部分に「牛首」、北東寄りに「柳の谷」と記されているが、住民によると「牛首」は地区名というよりは地形そのものの名称という意味合いが強いよう。読みは「うしのくび」。南西部にも過去に居住があり、通称は「花壇(かだん)」とのこと。
 ここでは便宜上それぞれを「牛首」「柳の谷(やなぎのたに)」「花壇」と呼ぶこととする。
 市史によると、天和年間(1681-1684)に備前藩家老の家来・藤原長八が藩の命により島守として赴任したことが定住の始まりと伝わるのこと(後の古市家の源流)。明治以降は半農半漁で生活していた。昭和10年頃は石材の切り出しが盛んで戸数も26戸を数えた。昭和30年初頭には国有林の払い下げを受けて入植した人や石切場で働く人を含め13戸50人となった。平成6年7戸15人。うち民宿3戸、旅館1戸。子供が3人含まれているが、本校に通学していた。
 資料『シマダス』によると、昭和35年46人、平成27年3戸7人。地名は東岸の一番谷から六番谷までの6つの谷があることにちなむという。北端のキャンプ場は県の「青少年の島」に指定。
 資料『児島諸島及び石島の民俗』によると、主な姓は古市氏と岡氏。後者の祖先は岡六郎左エ門で、正徳年間(1711-1716)に牧場馬方として来島した(馬の放牧は明治16年まで継続)。明治時代に山林が国有林となり、山仕事が重要な収入源となる。昭和9年に国立公園に編入されるとこれも制限され、採石業が行われるようになった。戦後国有林は島外の者に大部分が払い下げられ、山本氏一族(3世帯)が吹上(ふきあげ:下津井の地名)より入植、下津井の池田氏が通い耕作を行うようになる。その後、海水浴客を相手にした観光業が行われるようになった。農業では除虫菊の栽培が盛んで、大正から昭和初期が最盛期。ほか麦や甘藷、米などを栽培。氏神は島のほぼ中央に鎮座する荒神社。刊行当時(昭和51年)で、牛首に岡家3戸(屋号モトホンケ〔またはナカエ〕・ノッケ・シンヤ)、柳の谷に古市家3戸(ホンケ・ヤナギノシンエ・シタノエ)が居住。
 なお呼称は資料『シマダス』や島嶼を紹介する内容の諸サイト等では「むぐち」、「角川」や県・市の観光サイト等では「むくち」となっている。ちなみに島内の民宿「六口荘」は「むくち」と読まれる。

※ 民宿の宿泊は2名から受付。よって単独での上陸は別の手段が必要となる

 


≪牛首≫

形態:海沿いに家屋が集まる
標高:数m〜20m

 島の北西の地区。現住。鞍部を挟んで主に東側(※)には船着場と人家・墓地・神社、西側には民宿や海水浴場がある。
 住民(民宿経営者)の話では、分かるもので船着場側に3軒、海水浴場側に3軒があったという。現在は2軒で、いずれも民宿を経営。金毘羅様が祀られている(写真7)。船着場から柳の谷の間の道沿いには廃屋があるが、これは別荘であったとのこと(写真11)。
 海水浴場の南端には、象の形をした奇岩「象岩」がある(写真16)。市史によると、昭和7年国の天然記念物に指定。元来は鼻の部分がさらに長かったが、昭和57年12月に先端部分が欠落しているのが確認されたという(欠落はこの数年前か)。復元も検討されたが、元々脆い花崗岩であり、亀裂も発見され、他の部分が損壊する恐れがあることから見送られている。また付近にある石造の五重塔は、大正14年に下津井の円福寺住職により建てられたもので、象にゆかりのある普賢菩薩を祀ったものといわれている。
 墓地が船着場側に見られたが、岡姓のみ確認(写真8)。また金毘羅様とは別に、柳の谷へ向かう道沿いにも何かを祀った小祠が見られた(写真10)。
 資料『児島諸島〜』によると、船着場側において昭和10年頃までは水田があり稲作が行われていたとのこと。また先述の別荘がある付近の突き出た岩場を「茶屋鼻」といい、江戸時代に藩主池田家の茶屋があったという。

※ 資料『児島諸島〜』によると、「大首」と呼ばれる地域

 


写真1 船着場遠景
(以下船着場側)

写真2 船着場

写真3 船着場の石仏

写真4 空家

写真5 畑

写真6 金毘羅様参道

写真7 金毘羅様の祠

写真8 墓地

写真9 参道の石柱(写真6とは別のもの)

写真10 写真9の小祠

写真11 船着場‐柳の谷間の廃屋

写真12 家屋群
(以下海水浴場側)

写真13 宅地

写真14 浜の風景

写真15 象岩
※ スマートフォンによる撮影


≪柳の谷≫

形態:海沿いから谷沿いにかけて家屋が集まる
標高:数m〜10m

 

 島の北東の地区。
 民宿の方の話では、多い時で3戸。無住となったのは20年ほど前。現在もかつての住民が通いで畑を耕作しているとのこと。六口島の分校があった。
 市史によると、分校は明治39年開設、大正10年廃止。人口増加に伴い昭和29年再び開校し、同42年休校、平成元年閉校(下津井西小学校六口島分校)。ほか下津井中学校六口島分校もあったが、これも平成元年に閉校している。
 資料『児島諸島〜』によると、論文作成当時(刊行は昭和51年)にはまだ水田があり、3戸で稲作が行われていたことが分かる。
 数軒の家屋と校舎のほか、墓地を確認。墓地では古市姓が見られる。

 


写真16 港

写真17 川(手前)と家屋

写真18 家屋

写真19 畑と家屋

写真20 小祠

写真21 井戸。右奥に小祠も見える

写真22 校舎

写真23 校舎にて

写真24 墓地

写真25 墓地にて。地蔵?

写真26 上流の溜め池


≪花壇≫

形態:谷沿いの一軒家
標高:約20m

 

 島の南東の地区。
 民宿の方の話では、国有林の払い下げを受けた人物がこの地に居を構え、付近一帯で3箇所の旅館を経営していたとのこと。宿は3つある谷沿い(※)にそれぞれ置かれていた。隠れた名所であったという。
 現在もそれぞれの谷に宿の建物や人家が残る。一時的な天候の悪化のため、三番谷の跡地は未確認。東側と中央を結ぶ道沿いには古い墓が見られたが(写真29)、資料『児島諸島〜』によると、古市氏・岡氏と同じ頃に入植し、南面を開拓したのではないかとしているが詳細は分かっていない。なお刊行当時(昭和51年)では時おり呼松(よびまつ:倉敷の地名)にいる子孫(三宅氏)が墓参りに来ていたことが窺える。
 なお先述の平成6年当時の居住世帯の「旅館1戸」がこれに当たると思われる。

※ 資料『児島諸島及び石島の民俗』によると、東から一番谷・二番谷・三番谷

 


写真27 遠景

写真28 東の浜

写真29 墓

写真30 旅館跡

写真31 中央の浜。端に船着場が見える

写真32 家屋

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ