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◆釜島(かましま)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「下津井」(昭和22.5)を使用したものである

所在:倉敷市下津井(しもつい)
地形図:下津井/玉野
アクセント:カシマ
形態:島内に家屋が散在する
標高:約10〜20m
訪問:(2021年11月)

 

 下津井の久須美鼻(くすみはな:岬の名)より南東に1qほどにある島。
 資料『シマダス』によると、明治41年6戸28人。戦後にはかなりの入植者があり、昭和30年人口76人。昭和55年の国勢調査より人口が0になった。昭和61年より海水浴シーズンのみ元住民により民宿と茶屋が1軒営業していたが、現在は無人化。塩釜神社がある。
 
また市史によると、定住の起こりは那須円済という武士が流罪となり、従者1人とともに開墾したことによるという。配流の時期は不明だが、寛文4(1664)年に死去している。幕末の資料では、島守として「釜島守 那須増右衛門」という名が見られる。昭和12年の調査では、那須姓が本家・分家の2戸、従者筋の奥野姓が3戸で、農業が主体であった。戦後は県の斡旋で開拓者が入植。昭和30年頃16戸85人、同40年頃5戸13人。那須本家の夫婦が最後まで残り農業と民宿を営んでいたが、平成2年に島を離れた。また
下津井西小学校釜島分校および下津井中学校釜島分校があったとのこと。それぞれ平成元年に閉校。
 資料『児島諸島及び石島の民俗』によると、生活は農業主体。比較的広い水田と自給程度の畑があった。水田は昭和40年頃まで。また古くは島内に自生するマツも財源で、下津井や周囲の島々に下枝や葉を売っていたという。漁撈は、磯での海藻類の採取が僅かに行われる程度であった。戦後は入植者により農地がかなり開拓された。
過疎化した後は付近の松島の住民が通いで耕作していたが、それも零細となっている(刊行は昭和51年)。昭和33年16戸65人のうち、8戸40人は戦後の入植者。刊行当時ではまだ電気が通じていなかったことが窺える。塩釜神社は島の氏神。
 上陸はせず外観のみ。外観からは集落の痕跡を確認すことはできない(写真のキャプションに記した浜の名称は、資料『児島諸島及び石島の民俗』より)。
 数年前より
リゾートホテルによるアクティビティの場として管理が行われ、これに参加することで部分的な上陸は可能。

 


写真1 島遠景(北側より撮影)

写真2 北の浜(=福田浜)

写真3 西の浜(=西浜)

写真4 桟橋。写真3にて

写真5 東の浜(=東浜)

 

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