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◆広見(ひろみ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「三段峽」(昭和32.11)を使用したものである

所在:益田市匹見町匹見(ひきみちょうひきみ)
地形図:野入/三段峡
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約600m
訪問:2015年8月

 

 大字匹見の中部南寄り、匹見川支流の広見川(裏匹見峡)沿いにある。
 2013年、集落付近が災害復旧の工事中で通行止めのため、匹見側・広島県吉和側いずれからも到達できず。
 町誌によると、昭和45年12月、7戸が離村し無住となったとのこと。昭和38年の豪雪を機に県が過疎地域対策事業として集団移転を勧めたもので、小虫小平でも同様に行われた。最盛期72戸360人。農業とワサビ栽培が主な産業であった。また山林資源に富み、企業による合板製造も行われたほか、林業も盛んであったよう。

 明治17  匹見小学校広見分教場創設
 明治25  匹見上村尋常小学校広見分教場と改称
 明治34  高等科設置。匹見上村尋常高等小学校広見分教場となる
 明治42  広見尋常小学校と改称
 昭和16  広見国民学校と改称
 昭和22  広見小学校と改称

 昭和45

 廃校。匹見小学校に統合。12月廃校式挙行


 以下は資料『ふるさと拾遺集 広見』より。

 産業は林業と農業に依存。主な産物は、米・麦・豆類・そば・ワサビ・木炭・杭木・建築材等。特にワサビは重要な収入源であった。またワラビ・ゼンマイ・ウド・フキといった山菜、栗や栃といった木の実はよく採集され、住民の食料となった。

 旧街道には以下のものがある。
・大赤谷峠道
 広見(奥ノ原)の大赤谷より県境(横川越)を越し、細見谷・水越峠経由、広島県戸河内町【現・安芸太田町】横川(よこごう)に至るもの。広見には峠下に山口屋という休憩所があり、老夫婦が経営していたという。
・青地ヶ谷の鈩道
 広見(河崎)の青地ヶ谷より匹見(神原)の善正寺に至るもの。行きは駄馬がたたら金を背負い、帰りは揚荷を背負って往来した。駄馬が通れるような道幅に改修されたのは、たたら事業全盛期の宝暦年間。
・五里山道
 広見(河崎)より県境を越え、広島県吉和村【現・廿日市市】大向に至るもの。広島県側は、現在の国道488号線に当たる。
・小虫道
 広見(中ノ原)の向ノ谷より小虫虫ヶ谷に至るもの。天保年間、道川(みちがわ)の人物が広見の庄屋を兼ねており、村内の見回り等で通うため道普請が義務付けられていた。天保・安政時代は庄屋道とも呼ばれていた。江戸末期から明治中期まで津合谷に鉱山が開発され、一時期人の出入りも多くなり賑わった。
・生(なま)
 広見(河崎)より広見川を巻くように生山の中腹を通り、広見川・赤谷川の合流部付近に降り、匹見(神原)に至るもの。江戸末期に作られ、明治45年に生山村道が開通するまで使用された。
・亀井谷道
 広見川を登り詰め、亀井谷に降りて道川に至るもの。たたら事業のため設けられた。宝暦年間、津和野藩は近郷の木々は伐り尽くしたため下道川・亀井谷に進出し、恐羅漢山(おそらかんざん)の麓に事業所を開設。製品は駄馬によって亀井谷を通り道川に出された。

 現在の道路(匹見‐吉和間)は、明治23年匹見下村村長の山崎氏が提案。明治45年完成。昭和35年県道となり、同57年に全面鋪装。平成5年国道となる。

 かつての家々は以下のとおり。資料冒頭の「広見全図」を大もとに、本文内の情報を付け加えた。なお離村時期は「昭和2-10年」「昭和10-20年」「昭和20-30年」「昭和30-40年」「昭和40-50年」の5段階で表されており、ここではそれぞれ数値のみで記した。
 最後の住民は、久留須・甲佐・斉藤・山根・山根・山根・斉藤の7世帯。

  区分 屋号 離村時期 明治元年居住 特記
1 上組 ヤマグチヤ(山口屋)   2-10  
2 ウメダ   2-10    
3 ヘヤ   10-20    
4 オクノホンケ(奥ノ本家) 山根 40-50  
5 インキョ(隠居) 山根 30-40    
6 ヤマサキヤ(山崎屋) 山根 30-40  
7 ヤマタヤ(山田屋) 斉藤 30-40  
8 オキノイエ(沖ノ家) 斉藤 30-40    
9 サカイ   20-30    
10 ナカノホンケ(中ノ本家) 斉藤 2-10  
11 タジマヤ(田島屋)   10-20  
12 ニシオカ   20-30    
13 タツヒロヤ(辰広屋) 甲佐 40-50   集団移転まで居住
14 ナカノ(中野)   10-20    
15 フジタ   10-20    
16 ダアノヘヤ   40-50    
17 ダア 久留須 40-50 集団移転まで居住
18 ヘヤ   2-10    
19 ソラ(空) 久留須 30-40  
20 ウシロ(後) 山根 20-30  
21 ツネイチ   2-10    
22 ロクヘイ   2-10    
23 中組 ヒデウラ   30-40    
24 ナカノハラ(中之原/仲之原) 斉藤 40-50 集団移転まで居住
25 ヨシダヤ(吉田屋) 斉藤 10-20    
26 ヨシモトヤ(※1)   10-20    
27 タマヤ(玉屋)   20-30    
28 (教員住宅)      
29 フクヤ   30-40    
30 カノマチヤ(※2)   2-10    
31 サイトウ   10-20    
32 オカノヤ(岡野屋) 斉藤 20-30    
33 ムカイヤ(向井屋) 斉藤 10-20    
34 ヘヤ   2-10    
35 ヨシモトヤ(※1)   20-30    
36 スゲノハラ(管ノ原) 斉藤 40-50  
37 カミヤ(鹿美屋)/コンノ 今野 40-50    
38 ヒライシ   記載なし    
39 下組 マンイチ 2-10    
40 トビイシ(飛石) 斉藤 40-50  
41 ミナトヤ(港屋) 斉藤 2-10    
42 イズミヤ   2-10    
43

サカモトヤ(坂本屋)

寺尾 30-40    
44 タニグチヤ   20-30    
45 スミタヤ(隅田屋) 山根 20-30    
46 シンタク(新宅)   30-40    
47 タンバ   2-10    
48 モリタヤ(森田屋) 山根 20-30    
49 ナカノ(中野) 仲野(中野?) 30-40    
50 ナツヤケ(夏焼) 斉藤 40-50   集団移転まで居住
51 ヨシノヤ(吉野屋) 山根 30-40  
52 ウエキヤ(植木屋) 保木本 40-50    
53 ウエ(植) 山根 40-50 集団移転まで居住
54 ヘヤ   2-10    
55 シンタク(新宅) 山根 10-20   集団移転まで居住
56 オキタヤ(沖田屋)   40-50  
57 モリワキ(森脇) 斉藤 30-40  

※1 吉本屋には山根氏が居住していたが、2軒ありどちらに該当するかは不明
※2 本文では「叶直智屋」とあるが、読みから鑑み「叶真智屋」の可能性がある
※3 本文では、全図に該当しない屋号に谷本屋・新井屋・森元屋・今川・斉藤吉・吉本屋・前芝・新田屋・栄屋・管の原部屋・丸屋(綾木氏)がある(新田屋は明治元年にも居住)
※4 この表では見られない姓として、大庭・藤田・川本・泰野(秦野の誤植?)・今川・前芝・西岡・丹羽・梅田・秀浦・平石・金山・桧谷・綾木といったものがある

 戸口の変遷は以下のとおり(数年ごとの抜萃)。

  明治30 明治35 明治40 大正元 大正5 大正10 大正15 昭和3 昭和5 昭和10 昭和15 昭和22

昭和27

昭和30 昭和35 昭和38 昭和40 昭和42 昭和44
戸数 24 23 24 32 30 30 30 31 33 39 37 36 48 43 53 23 15 7 7
人口 158 171 144 179 178 187 199 206 195 155   145 196 94 198 118 59 60 44

 学校の変遷は以下のとおり。

 明治17.5  匹見小学校広見分教場創設。斉藤為吉氏宅を仮校舎とする
 明治20.4  河内神社拝殿に移転
 明治25.12  匹見上村尋常小学校広見分教場となる
 明治33.11  校舎新築
 明治34.5  高等科設置。匹見上村尋常高等小学校広見分教場となる
 明治38.10  校舎損壊により斉藤初太氏宅を仮校舎とする
 明治39.1  校舎改築竣工
 明治42.4  広見尋常小学校となる
 昭和2.4  新校舎完成
 昭和16.4  広見国民学校となる
 昭和22.4  広見小学校と改称なる
 昭和34.12  新校舎完成

 昭和45年度(※5)

 廃校。匹見小学校に統合。

※5 『ふるさと拾遺集 広見』では昭和46年3月、町誌では昭和45年とあり、12月廃校式挙行とのこと

 児童数の推移は以下のとおり(数年ごとの抜萃)。

明治30 明治35 明治40 大正元 大正5 大正10 大正15 昭和5 昭和10 昭和15 昭和17 昭和30 昭和35 昭和38 昭和40 昭和42 昭和44
33 24 15 28 31 35 35 20 29 28 33 19 33 19 10 4 6

・神社
 広見開拓の祖先が亀渕の上に水分神・保食神・大山祇神を祀り、河内大明神と称したのが始まりとされる。寛永年間には岩原ノ森に移転した。明治初期には拝殿が寺子屋として、また同20年から33年までは分教場として使用された。昭和18年、河崎森の大元大明神を合祀。昭和24年、現在地に移転。集団離村に伴い、御神体は匹見天満宮に合祀された。


 2015年、改めて吉和側より訪問(匹見側は引き続き通行止め)。現地で見られる建物は、校舎のほか屋敷跡に建てられた簡素な家屋が3軒。他の屋敷跡にも、家があったことを示す碑が複数建てられている。上流側の訪問は、「おしどり橋」まで。下流側は「げんか橋」(地図画像で左下)までで、この付近の右岸側に1箇所の屋敷跡を確認した(写真14・15)。なお最近の地図でも墓地の記号が記されている場所があるが、屋敷跡と農地跡があるのみでそれらしい雰囲気は見られなかった。

 


写真1 農地跡(以下概ね上流より)

写真2 屋敷跡の碑

写真3 屋敷跡。碑が建つ

写真4 屋敷跡の碑

写真5 屋敷跡の碑

写真6 屋敷跡

写真7 開けた平坦地

写真8 校舎

写真9 校舎内の一室

写真10 校舎そばの建物

写真11 農地跡

写真12 屋敷跡。右に浴槽

写真13 水田跡

写真14 川と屋敷跡の石垣

写真15 屋敷跡入口

写真16 写真15の屋敷跡

 

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