以下は資料『ふるさと拾遺集 広見』より。
産業は林業と農業に依存。主な産物は、米・麦・豆類・そば・ワサビ・木炭・杭木・建築材等。特にワサビは重要な収入源であった。またワラビ・ゼンマイ・ウド・フキといった山菜、栗や栃といった木の実はよく採集され、住民の食料となった。
旧街道には以下のものがある。
・大赤谷峠道
広見(奥ノ原)の大赤谷より県境(横川越)を越し、細見谷・水越峠経由、広島県戸河内町【現・安芸太田町】横川(よこごう)に至るもの。広見には峠下に山口屋という休憩所があり、老夫婦が経営していたという。
・青地ヶ谷の鈩道
広見(河崎)の青地ヶ谷より匹見(神原)の善正寺に至るもの。行きは駄馬がたたら金を背負い、帰りは揚荷を背負って往来した。駄馬が通れるような道幅に改修されたのは、たたら事業全盛期の宝暦年間。
・五里山道
広見(河崎)より県境を越え、広島県吉和村【現・廿日市市】大向に至るもの。広島県側は、現在の国道488号線に当たる。
・小虫道
広見(中ノ原)の向ノ谷より小虫・虫ヶ谷に至るもの。天保年間、道川(みちがわ)の人物が広見の庄屋を兼ねており、村内の見回り等で通うため道普請が義務付けられていた。天保・安政時代は庄屋道とも呼ばれていた。江戸末期から明治中期まで津合谷に鉱山が開発され、一時期人の出入りも多くなり賑わった。
・生(なま)道
広見(河崎)より広見川を巻くように生山の中腹を通り、広見川・赤谷川の合流部付近に降り、匹見(神原)に至るもの。江戸末期に作られ、明治45年に生山村道が開通するまで使用された。
・亀井谷道
広見川を登り詰め、亀井谷に降りて道川に至るもの。たたら事業のため設けられた。宝暦年間、津和野藩は近郷の木々は伐り尽くしたため下道川・亀井谷に進出し、恐羅漢山(おそらかんざん)の麓に事業所を開設。製品は駄馬によって亀井谷を通り道川に出された。
現在の道路(匹見‐吉和間)は、明治23年匹見下村村長の山崎氏が提案。明治45年完成。昭和35年県道となり、同57年に全面鋪装。平成5年国道となる。
かつての家々は以下のとおり。資料冒頭の「広見全図」を大もとに、本文内の情報を付け加えた。なお離村時期は「昭和2-10年」「昭和10-20年」「昭和20-30年」「昭和30-40年」「昭和40-50年」の5段階で表されており、ここではそれぞれ数値のみで記した。
最後の住民は、久留須・甲佐・斉藤・山根・山根・山根・斉藤の7世帯。
|
区分 |
屋号 |
姓 |
離村時期 |
明治元年居住 |
特記 |
1 |
上組 |
ヤマグチヤ(山口屋) |
|
2-10 |
○ |
|
2 |
ウメダ |
|
2-10 |
|
|
3 |
ヘヤ |
|
10-20 |
|
|
4 |
オクノホンケ(奥ノ本家) |
山根 |
40-50 |
○ |
|
5 |
インキョ(隠居) |
山根 |
30-40 |
|
|
6 |
ヤマサキヤ(山崎屋) |
山根 |
30-40 |
○ |
|
7 |
ヤマタヤ(山田屋) |
斉藤 |
30-40 |
○ |
|
8 |
オキノイエ(沖ノ家) |
斉藤 |
30-40 |
|
|
9 |
サカイ |
|
20-30 |
|
|
10 |
ナカノホンケ(中ノ本家) |
斉藤 |
2-10 |
○ |
|
11 |
タジマヤ(田島屋) |
|
10-20 |
○ |
|
12 |
ニシオカ |
|
20-30 |
|
|
13 |
タツヒロヤ(辰広屋) |
甲佐 |
40-50 |
|
集団移転まで居住 |
14 |
ナカノ(中野) |
|
10-20 |
|
|
15 |
フジタ |
|
10-20 |
|
|
16 |
ダアノヘヤ |
|
40-50 |
|
|
17 |
ダア |
久留須 |
40-50 |
○ |
集団移転まで居住 |
18 |
ヘヤ |
|
2-10 |
|
|
19 |
ソラ(空) |
久留須 |
30-40 |
○ |
|
20 |
ウシロ(後) |
山根 |
20-30 |
○ |
|
21 |
ツネイチ |
|
2-10 |
|
|
22 |
ロクヘイ |
|
2-10 |
|
|
23 |
中組 |
ヒデウラ |
|
30-40 |
|
|
24 |
ナカノハラ(中之原/仲之原) |
斉藤 |
40-50 |
○ |
集団移転まで居住 |
25 |
ヨシダヤ(吉田屋) |
斉藤 |
10-20 |
|
|
26 |
ヨシモトヤ(※1) |
|
10-20 |
|
|
27 |
タマヤ(玉屋) |
|
20-30 |
|
|
28 |
― |
(教員住宅) |
|
|
|
29 |
フクヤ |
|
30-40 |
|
|
30 |
カノマチヤ(※2) |
|
2-10 |
|
|
31 |
サイトウ |
|
10-20 |
|
|
32 |
オカノヤ(岡野屋) |
斉藤 |
20-30 |
|
|
33 |
ムカイヤ(向井屋) |
斉藤 |
10-20 |
|
|
34 |
ヘヤ |
|
2-10 |
|
|
35 |
ヨシモトヤ(※1) |
|
20-30 |
|
|
36 |
スゲノハラ(管ノ原) |
斉藤 |
40-50 |
○ |
|
37 |
カミヤ(鹿美屋)/コンノ |
今野 |
40-50 |
|
|
38 |
ヒライシ |
|
記載なし |
|
|
39 |
下組 |
マンイチ |
|
2-10 |
|
|
40 |
トビイシ(飛石) |
斉藤 |
40-50 |
○ |
|
41 |
ミナトヤ(港屋) |
斉藤 |
2-10 |
|
|
42 |
イズミヤ |
|
2-10 |
|
|
43 |
サカモトヤ(坂本屋) |
寺尾 |
30-40 |
|
|
44 |
タニグチヤ |
|
20-30 |
|
|
45 |
スミタヤ(隅田屋) |
山根 |
20-30 |
|
|
46 |
シンタク(新宅) |
|
30-40 |
|
|
47 |
タンバ |
|
2-10 |
|
|
48 |
モリタヤ(森田屋) |
山根 |
20-30 |
|
|
49 |
ナカノ(中野) |
仲野(中野?) |
30-40 |
|
|
50 |
ナツヤケ(夏焼) |
斉藤 |
40-50 |
|
集団移転まで居住 |
51 |
ヨシノヤ(吉野屋) |
山根 |
30-40 |
○ |
|
52 |
ウエキヤ(植木屋) |
保木本 |
40-50 |
|
|
53 |
ウエ(植) |
山根 |
40-50 |
○ |
集団移転まで居住 |
54 |
ヘヤ |
|
2-10 |
|
|
55 |
シンタク(新宅) |
山根 |
10-20 |
|
集団移転まで居住 |
56 |
オキタヤ(沖田屋) |
|
40-50 |
○ |
|
57 |
モリワキ(森脇) |
斉藤 |
30-40 |
○ |
|
※1 吉本屋には山根氏が居住していたが、2軒ありどちらに該当するかは不明
※2 本文では「叶直智屋」とあるが、読みから鑑み「叶真智屋」の可能性がある
※3 本文では、全図に該当しない屋号に谷本屋・新井屋・森元屋・今川・斉藤吉・吉本屋・前芝・新田屋・栄屋・管の原部屋・丸屋(綾木氏)がある(新田屋は明治元年にも居住)
※4 この表では見られない姓として、大庭・藤田・川本・泰野(秦野の誤植?)・今川・前芝・西岡・丹羽・梅田・秀浦・平石・金山・桧谷・綾木といったものがある
戸口の変遷は以下のとおり(数年ごとの抜萃)。
|
明治30 |
明治35 |
明治40 |
大正元 |
大正5 |
大正10 |
大正15 |
昭和3 |
昭和5 |
昭和10 |
昭和15 |
昭和22 |
昭和27 |
昭和30 |
昭和35 |
昭和38 |
昭和40 |
昭和42 |
昭和44 |
戸数 |
24 |
23 |
24 |
32 |
30 |
30 |
30 |
31 |
33 |
39 |
37 |
36 |
48 |
43 |
53 |
23 |
15 |
7 |
7 |
人口 |
158 |
171 |
144 |
179 |
178 |
187 |
199 |
206 |
195 |
155 |
|
145 |
196 |
94 |
198 |
118 |
59 |
60 |
44 |
学校の変遷は以下のとおり。
明治17.5 |
匹見小学校広見分教場創設。斉藤為吉氏宅を仮校舎とする |
明治20.4 |
河内神社拝殿に移転 |
明治25.12 |
匹見上村尋常小学校広見分教場となる |
明治33.11 |
校舎新築 |
明治34.5 |
高等科設置。匹見上村尋常高等小学校広見分教場となる |
明治38.10 |
校舎損壊により斉藤初太氏宅を仮校舎とする |
明治39.1 |
校舎改築竣工 |
明治42.4 |
広見尋常小学校となる |
昭和2.4 |
新校舎完成 |
昭和16.4 |
広見国民学校となる |
昭和22.4 |
広見小学校と改称なる |
昭和34.12 |
新校舎完成 |
昭和45年度(※5) |
廃校。匹見小学校に統合。 |
※5 『ふるさと拾遺集 広見』では昭和46年3月、町誌では昭和45年とあり、12月廃校式挙行とのこと
児童数の推移は以下のとおり(数年ごとの抜萃)。
明治30 |
明治35 |
明治40 |
大正元 |
大正5 |
大正10 |
大正15 |
昭和5 |
昭和10 |
昭和15 |
昭和17 |
昭和30 |
昭和35 |
昭和38 |
昭和40 |
昭和42 |
昭和44 |
33 |
24 |
15 |
28 |
31 |
35 |
35 |
20 |
29 |
28 |
33 |
19 |
33 |
19 |
10 |
4 |
6 |
・神社
広見開拓の祖先が亀渕の上に水分神・保食神・大山祇神を祀り、河内大明神と称したのが始まりとされる。寛永年間には岩原ノ森に移転した。明治初期には拝殿が寺子屋として、また同20年から33年までは分教場として使用された。昭和18年、河崎森の大元大明神を合祀。昭和24年、現在地に移転。集団離村に伴い、御神体は匹見天満宮に合祀された。
2015年、改めて吉和側より訪問(匹見側は引き続き通行止め)。現地で見られる建物は、校舎のほか屋敷跡に建てられた簡素な家屋が3軒。他の屋敷跡にも、家があったことを示す碑が複数建てられている。上流側の訪問は、「おしどり橋」まで。下流側は「げんか橋」(地図画像で左下)までで、この付近の右岸側に1箇所の屋敷跡を確認した(写真14・15)。なお最近の地図でも墓地の記号が記されている場所があるが、屋敷跡と農地跡があるのみでそれらしい雰囲気は見られなかった。