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◆本村(ほんむら)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「川原河」(昭和28.5)を使用したものである

在:日高川町串本(くしもと)字宮ノ本(みやのもと)・鯛ノ原(たいのはら)・中藪(なかやぶ)・堂ノ前(どうのまえ)・中谷(なかたに)・出シ瀬(だしぜ)ほか
地形図:寒川/川原河
形態:川沿いの斜面に家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:200m強(水面は約200m)
訪問:2011年2月・2013年1月

 

 大字串本の中部、日高(ひだか)川左岸にある。椿山ダムの建設により移転しているが、完全な水没は免れ水面近くに集落の跡が僅かに残る。
 訪問時は渇水のため比較的多くの遺構を確認。字堂ノ本では串本小学校の跡と思われる長方形の基礎(写真11)、字宮ノ本では河内神社(串本の氏神社である)の跡(写真12)が見られた。ほか多数の石垣や数箇所の屋敷跡、旧国道(写真13)、旧常盤(ときわ)橋の構造物?など。左岸の付替道路沿いには山小屋風の建物があるが、「美山レイク監視塔」とあり住居ではないよう。
 現在字初湯口(うぶうぐち)(右岸・常盤橋の袂)、国道沿いの小高い場所に堂宇が建っているが、これは串本の薬師堂(写真14)。元々は小学校の裏手にあり、ダム建設の際に移転・再建された。また薬師堂の近くには「串本小学校顕彰碑」(写真15)が建ち、学校の沿革が刻まれている。
 以下は村史や碑をもとに、小学校の沿革を作成したもの。

 明治5

 学制公布。笠松(かさまつ)小学校の学区であったが、通学は困難であった

 明治16.8.9

 有志者により薬師堂を仮教室として授業を行う

 明治21.4

 寒川(そうがわ)小学校の学区となり、さらに通学が困難になる

 明治22.8

 寒川村長より、県知事に簡易小学校設置を願い出る

 明治25.1.11

 薬師堂境内に新校舎を建設、串本尋常小学校開校

 明治34.5.29

 寒川第二尋常小学校と改称

 昭和5.10

 水没直前の位置に移転

 昭和14.5.7

 寒川第二尋常高等小学校と改称

 昭和16.4.1

 寒川第二国民学校と改称

 昭和22.4

 串本小学校と改称

 昭和28.7.18

 日高川が氾濫。校舎が浸水、一部が流出

 昭和56.3

 椿山ダム建設に伴い廃校


 なお左岸(宮ノ谷(みやのたに)橋の東詰付近)には、石仏や小規模の崇拝物(水没地にあったもの)が一列に祀られた場所がある(写真16)。村史によると、祀られているものは以下のとおり(上流より。■は判読されていないものか)。

番号 名称 備考
1 かさ地蔵尊 立像
2 自然石
3 道祖神 自然石2個
4 自然石
5 山の神  
 
6 道祖神 自然石
7 不明 文字不明
8 稲■ ■は「荷」と解釈されているよう
9 庚申像  
10 砂岩
11
12
13
14 花崗岩
15  
16 地蔵 坐像。砂岩
立像。砂岩
17 ■龍 砂岩
18 牛■ 他にもう1つ自然石。本文に「牛滝さんであろうか」とある

※ 椿山対岸にも同様のものがある

 役場の方の話では、移転前は23戸。

 


写真1 常盤橋より集落跡を望む


写真2 区画が残る


写真3 右岸の農地跡


写真4 集落内にて


写真5 便所跡

写真6 何かの跡

写真7 集落内にて

写真8 外灯

写真9 アーチ状の何か

写真10 屋敷跡

写真11 集落にて

写真12 集落にて

写真13 学校跡?

写真14 旧国道

写真15 河内神社跡(
下村より撮影)

写真16 同。社殿の基礎?

写真17 車道沿いの墓地

写真18 薬師堂

写真19 「串本小学校顕彰碑」

写真20 小祠群
≪移転前≫
※ 日高川町役場美山支所より提供していただきました

写真21 集落風景

写真18 串本小学校

 

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