戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆寺本(てらもと)



※ 明色部
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「新宮」(昭和28.4)を加工し使用したものである

所在:新宮市熊野川町畝畑(くまのがわちょううねはた)
地形図:紀伊大野/新宮
アクセント:テモト
形態:川沿いの斜面に家屋が少数集まる
標高:約200m
訪問:2013年2月

 

 大字畝畑の中心部付近。かつて学校(※1)があった。
 現地は県道から少し山手に登った場所。学校跡には校舎や門柱が残るほか、校地の隅には何かが祀られている場所がある(写真5)。背後には数軒の宅地が並び、校地の隣にも屋敷跡がある。また近くには古い墓地(写真8)があるが、前に並べられた石碑や石塔(写真9)は畝畑地内から集められたものだろうか。集落から約130mほど南にある鞍部に登ると、複数の石仏や祠が置かれている(写真10・11)。
 現在の車道が開通する以前は、和田(わだ)川・小口(こぐち)川の合流部(町内西(にし)の小口)から大倉畑(おおぐらばた)山の北にある峠(ザレ山峠)(※2)を経由し、当地に降りてくるという長く険しいものであった。この鞍部までの道のりにある「思案坂」や峠の俗称「辞職峠」からは畝畑の僻地性が垣間見られる(※3)。集落訪問後に辞職峠も訪れたが、峠の800mほど手前で大規模な崩落があり、稜線まで登って迂回しなければならない。
 畝畑出身者(檜曽原に昭和40年まで居住)の話では2戸(教員住宅を除く)で、無住となったのは昭和40年頃だという。学校敷地はもと寺院(※4)であったため、このような地名になった。また畝畑(小口)在住の方の話では、学校の背後にある家々は教員住宅であったという。もと1軒であったが、のち3軒に増加。最初の1軒は旧来から民家として使用されていたもの。小学校は多いときで30数人の児童が在籍していた。墓地の丸みのある特徴的な墓石については、往時の寺院関係者のものではないかとのこと。

※1 畝畑小学校。明治11年創立(町史)。昭和51年休校、平成5年閉校(HEYANEKO氏調べ)
※2 現在でいう峠は大倉畑山の北にある鞍部を指すが、古い地図ではここから100mほど北に位置している。稜線を下った際、ここでも道が確認できた(写真14)
※3 思案坂…きつい坂道であったため、行くか戻るか思案してしまうことから 辞職峠…一般には小学校に赴任してきた教員が辞職を考えたことが謂れとされているが、畝畑小学校の元教員(昭和25年から3年間勤務)は巡回に訪れた駐在が辞職を考えたものと語っている(町史)
※4 「角川」に記載のある定福寺か

 


写真1 校門


写真2 校舎

写真3 遊具

写真4 遊具(手前)と教員住宅

写真5 小祠

写真6 教員住宅

写真7 屋敷跡

写真8 墓

写真9 石仏・石塔群

写真10 峠の石仏

写真11 峠の社

(写真12 ザレ山峠への道)

(写真13 峠にて)

(写真14 旧峠?)

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ