◆上西(うえにし)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「伯母子嶽」(昭和28.10)を使用したものである
所在:十津川村杉清(すぎせ)
地形図:伯母子岳/伯母子岳
形態:稜線上の一軒家
標高:約1,020m(登り口は約350m)
訪問:2013年12月・2022年5月
大字杉清の北東部、伯母子(おばこ)岳の南東およそ1.4kmの山中にある。五百瀬(いもぜ)から伯母子峠を越える熊野古道(小辺路(こへち))沿いの旅籠跡。
資料『十津川郷採訪録』によると、代々旅籠を営んで繁盛し、街道の両側(三田(びた)谷・小井(こい)谷)を所有していたという。また『十津川の地理』によると、なくなった年および当時の戸数は、大正12年1戸とある(※)。
「十津川かけはしネット」には、大正3年ころ叔母が旅籠の女将をしていたという方の話が採録されている。以下はその要約。
中西家が旅籠「上西」を経営。牛を2頭飼い、家の周りは広い畑で野菜もたくさんとれた。上西のカボチャとジャガイモは、「北海道にも負けんぐらいうまい」と評判だった。田んぼは山を下ったところに少々あった。
昭和初期くらいまでは、高野から伯母子峠を越えて馬が米・魚を十津川へ運んでおり、馬子は上西で一服、下の五百瀬へと下りていった。
高野詣での人たちが行き来していたが、毎年、春から夏にかけては、巡礼さんが大勢泊まっていた。
高野街道の衰退とともに、旅籠「上西」も消えてしまった。
※ ただし現地の説明板に引用される古老の話では、昭和9年頃まで暮らしていたとある
三田谷集落付近の登り口より、水平距離にしておよそ5km強、標高差約670m。現地に到達すると、低い石垣が築かれた広い屋敷跡が確認できる。屋敷跡の南側にある平地は畑の跡か。宅地の背後の小さな平坦地では数基の墓石が見られ、うち1基には中西氏の名が確認できた。
2022年、三田の訪問に併せ再訪。特に大きな変化はない。往路は現在のルートと並行する東側の旧道を利用したが、所々道が崩落しており通行には注意を要する。
なお現在のルート上には前回見られなかった新しい道標が随所に設けられている。これらには「上西家跡」についてローマ字で「カミニシ」と付記されているが、資料や説明板でのルビとは異なり疑問が持たれる。
|