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◆明円(みょうえん)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「十津川」(大正3.5)を使用したものである

所在:十津川村小森(こもり)
地形図:十津川温泉/十津川
アクセント:ミョーエン

形態:山中に家屋が集まる
標高:約520m
訪問:2010年9月

 

 大字小森の西部にある。小森西部には行仙(ぎょうせん)岳より派生する稜線が南北にが走っているが、集落はこの稜線を西側に少し越えた場所。山手(やまて)川の流域になる。
 家々は細い尾根から尾根脇の斜面にかけて何軒かあったようで、かなり平地に乏しい。農地は、村内でしばしば見られる急な斜面をそのまま耕した畑と思われる。屋敷跡は3軒ほど確認。集落最上部には墓地(写真3)があり、姓は確認できるもので西勝・西久保・西の3姓。地名の由来となった明円尼(墓碑では「妙円尼」)(後述)の墓もあり(写真4)、これは明治24年に建てられたよう。尾根の北側斜面は竹林になっており谷も近いが、農地か何かがあったのだろうか。下まで降りられず確認はしなかった。また集落への降り口付近の稜線上には、何かが祀られていた跡(神社?)が確認できる(写真5)。
 資料『十津川の地理』および『十津川』によると、離村時期は昭和5年、当時の戸数は1戸とある。
 『十津川郷採訪録』には以下のような記述がある。

 谷垣内(たにがいと)の上ミでは明円が最も早く開けた村で、家も5軒あったが今(※)は荒れ果てて植林されている。30年前には1軒が残っていて明かりが見えた。村址は谷垣内・那知合の高みからはっきり指摘される。

※ 昭和37年当時

 また同書による出身者の聞き取りから、家々は以下のとおり(括弧内は屋号)。

北本(ニシダ)・西(マエザコ)・西(ムネザコ)・森本(モリモト)・西(サカモト)

 以下は『十津川村の地理』にある記述。

 十津川村史の解明に尽力し、『十津川郷』(昭和7年)や『十津川郷士及亡命志士列伝』(昭和8年)を著した西田正俊氏の生誕地。地名の由来は、南北朝時代に大塔宮護良親王御潜行の際、尼明円が橡粥を宮に差し上げたことによる。付近には尼にまつわる伝説地もある。

 


写真1 屋敷跡

写真2 何かの跡

写真3 墓地

写真4 明円(妙円)尼の墓

写真5 石垣

写真6 神社の跡?

 

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