◆丸島(まるしま)
所在:尼崎市扇町(おうぎまち)
現在の扇町の北東部にあった集落。 市史の「大字別の小字名」および小字図(刊行当時〔=昭和49年〕)において「丸島」の字名は見当たらないものの、小字図を見る限りいずれも大字西新田で、西丸島は字平左衛門(へいざえもん)新田、東丸島は字喜左衛門(きざえもん)新田に属していたよう。 大庄村誌(※1)によると、天保(1830-44年)の頃、丸島海岸に藤原清助という人物が来住し、当地の宮崎某の助力を得て宮崎と名乗り、ここを拠点にして漁場開拓に乗り出したとのこと。これがそもそもの海岸利用の始まりであった。その頃は寄洲が丸い島を形作っていたので、自然と丸島と呼ばれるようになったという。堤防も道もない荒涼とした草原で、人々は砂丘の上に家を構えて居住。のち漁場も拡大し、戸数も4、50戸に増加した。 なお市史では江戸時代の新田開発について詳細な記述があるものの、丸島集落の発生について具体的な言及はない(風水害についての記述はある)。大庄村誌の記述より鑑み、当地は周囲で盛んに行われた新田開発に伴う集落とは別に、漁業集落として独自に発生したものであると思われる。 平左衛門新田は、天保10(1839)年に西新田村(のち尼崎市)および鳴尾村(のち西宮市)地内に開村した新田。その範囲は概ね現在の丸島町の南部・扇町の一部と平左衛門町の一帯。 ※1 大庄(おおしょう)村は、現在の尼崎市の南西部にあった村。昭和17年尼崎市に編入 東丸島は現在の「尼崎の森中 央緑地」内の「尼崎スポーツの森」付近、西丸島は同緑地内の茅葺き民家の北で、阪神高速に東西に沿う。なお茅葺き民家は芦屋市三条町(さんじょうちょう)の旧小阪(こさか)家の住宅(※3)を移築復元したもので、丸島とは関係がない。 ※3 18世紀後期に建築と推定され、同家は庄屋を務めたこともある。平成6年芦屋市指定文化財となるが、同7年の阪神大震災により全壊。解体後は市が保管。平成28年県に譲渡され、その後当地に復元された。平成30年より県指定重要有形文化財(説明板より要約)
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写真1 東丸島跡(推定地)を東側から見る |
写真2 西丸島跡(推定地)を東側から見る |
(写真3 茅葺き民家) |