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◆醤油谷(しょうゆだに)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「五條」(昭和33.7)を使用したものである

所在:河内長野市滝畑(たきはた)
地形図:岩湧山/五條
形態:山中に家屋が散在する
標高:約750m〜?
訪問:2023年5月

 

 大字滝畑の南東部、醤油谷(千石谷支流)の周辺にある。
 常住の集落ではなく、かつての特産品である凍豆腐(高野豆腐)の製造に伴い季節的な居住が行われていた地。

 資料『阪神大都市圏の土地利用』では、和泉山脈北斜面で盛んに行われていた凍豆腐製造の拠点として、森ノ谷とともに挙げられている。
 製造期間は12月下旬から2月下旬の厳冬期で、労働者は但馬地域からの出稼ぎであったとのこと。

 市史でもやはり凍豆腐の製造拠点のひとつであったことが言及されている。滝畑村当時の凍豆腐生産地として、キヤノ谷・蔵王谷・野谷森ノ谷・千石谷が挙げられている(中ノ谷は当時加賀田村であったため、この記述では言及されていない)。
 幕末の頃には和泉山脈の尾根上を中心に、一帯に豆腐小屋170釜(=軒)。明治初年73釜、大正末年40釜を数え、冬季になるとそこで働く人々で賑わったという。経営は紀州の人々であったが、職人は但馬からの出稼ぎであった。

 また『河内滝畑の民俗』によると、滝畑領内の山で凍豆腐の製造が行われるようになったのは、伊都郡伏原村(後の高野口町伏原)の百姓・筒井葉右衛門という人が文化4(1807)年に領内の山に入り、初めて製造したのに始まるという(『狭山町史』からの引用)。
 また大正から昭和初め頃には、千石谷・醤油谷・
森ノ谷で7、80軒の小屋があり、1軒で15人くらいの職人が従事していたという。ほか運搬に携わる牛方や薪を切る者も数人雇われていた。職人は但馬からの出稼ぎの人々であった(製造経験者〔明治23年生〕からの聞き取り)。なお戦後しばらくの間も凍豆腐が作られていたとのこと。

 さらに資料『凍豆腐の歴史』より、和泉山脈(葛城峰)の凍豆腐製造に関する大まかな流れは以下のとおり。

江戸後期における高野豆腐生産地は、高野山周辺・和泉山脈(葛城峰)・小倉山・播州丹波・高越山の五産地群(高野山は高野豆腐の起源で、歴史はもっとも古い)。この中で当地を含む葛城峰は、高野山周辺に次いで古い製造の歴史を持つ。
他生産地群に比べ、豆腐の凍結に好条件の寒気と風を得られる高地であるために、産地群中でも良品を産出した。また産地群中、大阪・堺への最短距離にあった。しかし豆腐小屋建設の最適地である山稜付近までは麓の村から遠く、また高野山とは異なり山上には平坦部もなく人家も田畑もない森林地帯であった。
豆腐小屋の位置は尾根に近い「日裏」(山脈の北側。夜間は寒風が吹き、日中もあまり日が当たらない)が適地として選ばれた。頂上近くの谷間で湧き出る水は少量であったため、小屋はあちらこちらにそれぞれ孤立していた。
豆腐作りは農閑期の男の仕事で、冬の3箇月間、紀の川流域の本宅へ家族を残して従事していた。初期は母村の本宅を拠点として経営と製造に従事していたが、生産量が増加するにつれ製造は職人に任せ、もっぱら母村で経営面に力を注ぐようになった。
文化年間(1804-1818)に豆腐小屋が建てられていた場所は、
森ノ谷・五葉谷・中ノ谷・醤油谷等であった。当時の「葛城氷豆腐仲間」は、森ノ谷付近の山頂に森の宮神社を祀って、この守護神を中心に集結した。
安政5(1858)年より凍豆腐は狭山藩による専売となり、自由な製造・出荷ができなくなった。藩による圧迫のため葛城峰では休釜が続出。豆腐製造は衰退していったが、幕末においてもなお9釜が残存した。
明治を迎え凍豆腐専売制は廃止され、経営の主導権は再び農民の手に戻った。葛城峰氷豆腐仲間は再び発展する。
明治9年24釜、同26年53釜、同40年81釜、明治42、3年頃110余釜。大正10年76釜、同11年82釜、同3年68釜。
豆腐小屋は東は紀見(きみ)峠付近より、中心部である
森ノ谷・醤油谷・岩湧山(いわわきさん)を経て蔵王(ざおう)峠付近に至る約12qの間に建ち並んだ。江戸期の豆腐小屋が悉く復旧されたばかりでなく、凍結を得られる可能な限りの低い谷間や、従来「日裏」でなければならないという慣習に捉われず、朝日の早い紀州側の谷間にまで適地が探され、山上は最大限に開発され尽くした。
のち冷凍技術を用い凍結工程を機械化した人工冷蔵豆腐の進出や、加工技術の向上などにより、安定した供給ができず手間のかかる天然の凍豆腐は姿を消すようになる。昭和25、6年頃には、葛城峰では豆腐作りは行われなくなり、人々は山を去った。近隣の産地中ではもっとも廃業の時期が早かった。


 訪問は地図画像で建物が記された場所すべて。
 中央谷沿い・東尾根沿い・西尾根沿いでそれぞれ1箇所の豆腐小屋跡を確認した。
 なお東の外れ、森ノ谷との間に記された建物(地図画像で右上)にも訪れたが、豆腐小屋のような広さや遺構は見られず別の用途の建物跡であるよう(写真8)。

 


写真1 豆腐小屋跡(中央谷沿い)

写真2 
写真1の遺構

写真3 豆腐小屋跡(東尾根沿い)

写真4 
写真3の遺構

写真5 写真3にて。石臼?

写真6 豆腐小屋跡

写真7 写真6の遺構

写真8 建物跡(東の外れ)

写真9 写真8の遺構 

 

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