◆榑ヶ畑(くれがはた)

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「彦根東部」(昭和26.9)を使用したものである
所在:米原市榑ヶ畑
地形図:彦根東部/彦根東部
異表記:榑が畑
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約400〜450m 訪問:2008年8月
JR東海道本線の醒井(さめがい)駅の南、多賀町との境界付近にある。米原から多賀町の大字霊仙(りょうぜん)に抜ける一本道の上にあり、現在でも霊仙山登山道として利用される。古い地図では入口付近に神社と学校、奥は住宅密集地を示す斜線の網掛けが施されている。
近世の坂田郡榑が畑村。明治22年、醒井村(のち米原町)の大字となった。
集落の最上部では、現在でも家屋を改装した山小屋(写真6)が期間営業している。かつての住民が経営しており、話を伺うことができた。以下は話の概要。
最盛期(明治)に家屋は50軒くらい。若い世代が次第に山を降り、老夫婦だけの世帯へ、そして次第に住民が減っていった。昭和35、6年、最後の住民が転居して無人に。
現在の車道とは別に、谷沿いの旧道があった。荷車も通っていた。
神社は八坂神社。寺院は光顕寺(こうけんじ)と緑苔寺(ろくたいじ)の2箇所があった。神社では現在も祭典が行われる。
神社のそばには集会所のようなものと分校(前身は榑ヶ畑尋常小学校)があった。4年生からは醒井の小学校へ通っていた。
生業は農林業。薪作りや炭焼きをしながら田畑(自給用)を耕し、田畑のない家は食料などを物々交換で得ていた。田は養鱒場まで広がっていた。畑では味の良いゴボウが採れた。他にもダイコン・ニンジン・サツマイモなどを収穫、保存食にも用いた。
電気は通ったが、倒木や雪などですぐに電線が切れランプ生活が主流だった。
年間3分の1〜半分くらいは雨や雪で外に出られなかった。特に五六豪雪(昭和56年にあった記録的豪雪)の際には家に閉じ込められた。今でも2、3mは積もるが、温暖化のせいか昔に比べて量は少なく、またすぐに融けてしまう。
天皇(名称不明)の一行がこの地を訪れた際、従者がここに住み着いたのが集落の起こりだという。
集落跡は植林により鬱蒼としており、谷沿いの道の両側には苔生した石垣が残る(写真1)。山小屋のほかに倒潰家屋が1軒、外便所と物置などが残る屋敷跡が1箇所、ほか屋敷跡と思われる場所が多数見られた。神社(写真7)は整備され、分校の跡地と思われる場所もある。集落の入口には山小屋の方?の厚意により、休憩所や案内地図が設えてある。登山客が多いようだ。
以下は参考資料より抜萃・改変
・学校の沿革
明治9.10 |
共同学校設立。武奈・男鬼に各支校を設置 |
明治19.11 |
武奈・男鬼の支校を分離、坂田郡第6学区簡易科榑桑小学校となる |
明治24.4 |
丹生小学校榑ヶ畑分教場となる |
明治26.2 |
丹生尋常小学校榑ヶ畑分教場となる |
明治34.10 |
丹生尋常高等小学校榑ヶ畑分教場となる |
明治45年2 |
醒ヶ井尋常高等小学校榑ヶ畑分教場となる |
昭和16年4 |
醒ヶ井国民学校榑ヶ畑分教場となる |
昭和18年3月 |
分教場を廃止 |
・人口及び戸数
年 |
戸数・人口 |
元禄8 |
男177・女192 |
明治5 |
男118・女127、51戸 |
明治26 |
275人、49戸 |
大正9 |
45戸 |
昭和35 |
男88・女121、41戸 |
・移住とその原因
昭和10年ころ、住民は平地に耕地を求めるようになる。醒ヶ井には少なく、東黒田村(のち山東町)に耕地を作る。その中間にある醒ヶ井に仮住まいを建て、耕地で稲作、農閑期には榑ヶ畑で林業を行っていた。
昭和15、6年ころ(第二次世界大戦が厳しくなり、配給制度が厳重になりだした時期)より、完全な移住になりだす。醒ヶ井の仮住まいを本家に建て替え永住をするようになる。
・姓
竹林・大久保・上坂・中野・藤崎が各3軒、上田・井戸・宮田が各2軒、円花・金田・三浦・奥田・川崎・宝・山崎・奥山・奥村・森・山本・川口・近藤・山口が各1軒
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