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◆北旭(きたあさひ)

 

※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「四日市」(大正12.7)および1/25,000地形図「四日市東部」(昭和14.2)を使用したものである

所在:四日市市東邦町(とうほうちょう)
地形図:四日市東部/四日市
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:国軍による接収
標高:数m
訪問:2015年11月

 

 東邦町の北部、天白川(てんぱく)川の河口付近にある。
 「角川」によると、当地は近世の三重郡大橋新田
(おおはししんでん)。地名の由来は開拓者の大橋六兵衛の名にちなむ。もとは泥沼や荒地であったものを文化11(1814)年(※)大橋六兵衛が私財を投じ干拓事業を行った。これは幕府の新田開発の奨励と、宝暦期(18世紀半ば)の木曽(きそ)・揖斐(いび)・長良(ながら)三川の治水工事により土地を失った農民の移住の必要があったことによる。開拓は成功したものの、水害や旱魃が繰り返され苦難の連続であった。開墾に着手すると同時に神明神社を勧請。明治8年旭村(のち塩浜(しおはま)村→四日市市)の一部となり、北旭と通称された。
 また資料『しおはま80年の変遷』によると、主な生業は農業であったよう。海に面した磯津(いそづ)地区や
七津屋では漁業が盛んに行われていたが、北旭・高旭浜旭は新田開発で進出してきた村であったため漁業権はなかった。
 以下は同書より離村までの主な流れ。

昭和10年頃より、戦争拡大に伴う航空用燃料の増産のため軍部が国内各地に燃料廠の建設地を探し始めた。当時県や市は塩浜地区(北旭・高旭浜旭七津屋を含んだ一帯)を工業地帯として開発すべく工場誘致を進めていたが、原油荷揚げ地としての立地が良好との理由で、塩浜地区に進出することが決定
昭和13年、北旭・
高旭浜旭七津屋の住民が集められ海軍燃料廠進出の説明会が開かれた。宅地・農地の一切を海軍に譲渡し、1年以内の移転を要求。用地の買収は昭和13年11月に開始され、翌年2月に完了。住民は強制的に離村となった
七津屋が馳出(はせだし)東部(現在の七つ屋町(ななつやちょう))に高旭浜旭は塩浜(現在の高旭町(たかあさひちょう)・浜旭町(はまあさひちょう))に、北旭は大井の川(おおいのかわ)北部(現在の曙町(あけぼのちょう))に移転。高旭・浜旭・七津屋は昭和13、4年に完了したが、北旭では移転が遅れ昭和18、9年までずれ込んだ

 現在は道路を挟んで南側が三菱化学株式会社の工場敷地、北側が緑地や倉庫等となっており、集落の名残はまったく見られなかった。

※ 「塩浜」(近世)の項では文政11(1828)年に開いたとしており、この時に竣工か(本文は「旭」および「大橋新田」の項からの引用)

 


写真 集落跡の西端付近から東方向を望む

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