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◆須賀利(すがり)
(元須賀利)



※ この地図は、地大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「嶋勝」(大正元年)を使用したものである

所在:尾鷲市須賀利町(すがりちょう)
地形図:島勝浦/島勝浦
形態:海沿いに家屋が散在する?
標高:数m〜?
訪問:2020年12月

 

 市の北東部、島勝(しまかつ)半島の西南部にある。現在の須賀利集落は半島の東南部に所在するが、ここでは当集落が移転する前の旧須賀利集落(元須賀利)について述べる。なお須賀利地区は全体が海を挟んで尾鷲市の飛び地のため、陸路では市内の他地域に接していない。
 資料『日本の小さな漁村 須賀利』によると、江戸時代にはまだ居住があったらしいとのこと。現在当地には社護(しゃご)神社が残るのみ。なお昭和48年から58年まで、三重県水産試験場の魚類種苗生産施設があった。
 また『おわせの浦村』では、「台風の被害に耐え切れず半数は海山町【現・紀北町】の島勝(しまかつ)へ、半数は現在の須賀利町へ移住したとわれている」という古老の話が取り上げられている。良い漁場として知られ、マグロが大漁であった時期がある(天保10(1839)年から翌年まで)。
 市史によると、明和6(1769)年、天保7(1836)年、天保8(1837)年には大時化に伴う高波により、海岸通りや農地に大きな被害があったよう。
 時間の都合で訪問には至らず、入口の下見のみ(2014年)。

 2020年訪問。須賀利の奥集落の東側に現地への取り付きがあり、大池・小池方面を示す立て札がある(写真1)。道は日和山から延びる尾根筋を除き、概して傾斜がきつい。生活道として老若男女が利用していたものではなく、元来は製炭や山仕事のための杣道であったと思われる。ただし草深い箇所は刈り開かれていたり、案内の札が随所に設置されていたりするなど、有志により定期的に整備が行われているよう。
 まず「小池」のある浜の内側で、何かの建物があったような平坦地を確認(写真7)。ただし明治以前のものとは考え難く、近代以降新たに設けられたものか、古い宅地を転用したものとみられる。この他に遺構の類はまったく見られなかった。
 次に「大池」の北西側で、屋敷跡のような遺構(写真12)や神社(写真15・16)を確認。神社の境内には祠が2つ祀られ、鳥居には先述の「社護神社」の文字が記されている。「大池」の南西には小さな池があり、1970年代の航空写真ではこの畔に建物が確認できる。これは先述の水産施設である可能性が非常に高いが、事前に施設の存在を失念していたため跡地の探索は行わなかった(当該部分には植物が繁茂していており、近づくことはなかった。写真20の右奥方向)。池の南で比較的新しめの遺物が散見されたのは、この施設があったためだろうか。
 のち「大池」の北側の畔を伝い江戸(えと)鼻(=岬の名)方面へ抜けたが、途中には2箇所の炭焼き窯跡が見られた(写真24・25)。
 また「小池」の南西で123mの標高点のある小ピークと江戸鼻付近にある小ピークに登ってみたが、特に何も見られなかった(写真3・30)。

 


(写真1 県道からの取り付き。右下に案内札が見える)

(写真2 道中の何かの遺構。炭焼き窯?)

(写真3 小池南西の小ピーク)

写真4 小池

写真5 湿地

写真6 小池北東の平坦部分

写真7 小池付近の建物跡

写真8 瀬戸物片

写真9 小池付近より湾を望む


写真10 大池の案内札


写真11 大池北西の平坦部


写真12 屋敷跡? 階段状のものが見える(大池北西)

写真13 神社参道(正面方向は海。道は撮影地点で直角に折れており、神社は右方向)

写真14 同。右奥が神社

写真15 神社。鳥居には「昭和五十七年四月吉日之建」「社護神社」とある

写真16 神社の祠。右には「春日大明神神霊」と書かれた小型の木柱がある

写真17 大池(西側から撮影)

写真18 瓦?

写真19 大池南西の石積み

写真20 大池南西の池(右奥方向は水産施設跡地)

写真21 何かの跡?(大池南西)

写真22 写真21付近の道と石垣

写真23 大池付近より湾を望む(水産施設の桟橋跡付近)

写真24 炭焼き窯跡(大池北の畔)

写真25 炭焼き窯跡(大池北の畔)

写真26 大池東の平坦地

写真27 大池東の道

写真28 大池(東側から撮影)

写真29 東海岸より海を臨む

写真30 江戸鼻付近の小ピーク

 

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