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◆青田(おおだ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「高見山」(昭和27.1)を使用したものである

所在:松阪市飯高町青田(いいたかちょう―)
地形図:七日市/高見山
アクセント:オーダ
形態:川沿いに家屋が散在する
離村の背景:一部がダム建設、その後集団移転
標高:
訪問:2009年1月

 

 櫛田(くしだ)川の支流、青田川沿いにある。
 上組・中出組・中屋組・下組の4集落からなるが、該当する地域は未調査。上流では改修された家々が残り、訪問時も何軒かの灯りが点っていた。
 古い地図で学校が記載されている場所?(写真3)には、整備された広い敷地と「想」と題された碑がある。以下は全文。


 昭和三十四年九月二十六日、東海地方に甚大な被害をもたらした伊勢湾台風は、櫛田川流にも未曾有の大災害を残して去った。
 この台風を契機に流域を水害から守る目的で、建設省によって計画されたのが蓮ダムである。
 しかしこの蓮ダムの建設計画は青田の住民に大きな変革と決断を強いるものとなった。区内の下組のほぼ全域と、深山小学校(※1)・青田保育所などの水没が必至となり、残る上・中出・中屋組の三部落は、他の地域社会から孤立することとなった。又急激な人口の減少によって、住民の生活基盤を脅かす憂慮すべき事態に直面した。
 この時、全戸移転問題が持ち上がったのである。
 そしてこの全戸の移転を決断するに至る迄は、その賛否を問い昼夜を分たず論議の限りを尽くした。
 しかし残存か、移転かを現実の問題として捉えた時、過疎化と高齢化が尚一層深刻化する事等が予測され問題解決の妙案もなく、長い青田の歴史のなかで祖先が営々として築き上げた気風を守り、時と所を移してもその精神を継承する事こそ、我々に与えられた使命と考え、正に断腸の思いで全戸移転を決意したのである。父祖伝来の地を去るに当たり、その経緯と筆舌に表現できない諸々の思いとを当時の区民の氏名と共にこの碑に刻み永く世に伝えるものである。
 平成三年八月吉日 元青田区々民一同

※1 市の飯高地区振興局のサイトによると、昭和55年3月廃校・森小学校に統合


 以下は、碑の裏に刻まれた集落ごとの姓。

≪下組≫
不殿3・本地3・上前2・向井2・辻野・吹戸・岩本・谷口・部屋・中西・下村・中山・今井・足立 各1

≪中屋敷≫
下村6・下谷3・石原・井倉・今井・中谷・小森・吉岡 各1

≪中出組≫
大野3・瀬上3・大谷2・中〓【木へんに万】2・吉田2・平中・尾形・中井・高野・上前・浦口・片浦・村手・藤本・山口・落合 各1

≪上組≫
平野3・河合2・鬼頭2・宮本2・野木・床呂・松葉・上杉・今井・赤堀 各1


 また寺院(盛傳寺)の跡地にも碑(写真7)がある。以下は碑に刻まれた文章。


蓮ダムに伴い青田及び
清瀬地区の檀徒も移転のやむなきに至る 従って当寺の維持が困難となり雲林寺と合併することになる
参百余年の長い歴史をここに閉じる

 平成二年 盛傳寺檀家一同


 最上流でアマゴの養殖をしている方(で会った方によると常住)の話では、かつては83軒の家があり、移転先は町内森(もり)の犬飼(いぬかい)とのこと。盆や正月など時々戻って暮らす家もある。この方は昭和20年代に大阪に転居、平成に入って戻ってきたためその間のことは詳しく知らないそう。
 町郷土誌によると、大正時代には近代的な乾溜工場があり、酢酸・メチルアルコール・木炭といった産物を出荷していたという。神社は村社の八柱神社(字古瀬町)のほか、無格社の山神社(字古瀬町)や八幡社(字木屋谷)があった。寺院は盛伝寺(曹洞宗。山号は高獄山)。当地にあった深山小学校は、明治17年飯高郡第27学区大俣学校の第一分校として開校、昭和55年閉校(※2)。また森中学校青田分校は、昭和42年閉校(開校の記載なし)。
 なお大字青田は近世の青田村。明治22年飯高(いいたか)郡森(もり)村、昭和31年からは飯高町の大字となる。明治2年36戸・200人、昭和35年113戸・496人、同50年86戸・285人、同57年61戸・189人。昭和22年電灯が引かれる。同33年電話架設。

※2 同書には「町内小学校系統表」があるが、表記の意図を判断しかねる部分が多く変遷は省略した

 


写真1 廃屋

写真2 屋敷跡

写真3 学校跡地? 中央やや右に碑が建つ

写真4 碑

写真5 何かの建物

写真6 寺院跡の石段

写真7 寺院跡の碑

 

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