◆本郷(ほんごう)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「冠山」(昭和33.5)を使用したものである
所在:揖斐川町徳山
地形図:美濃徳山/冠山
異表記:徳山
形態:川沿いに家屋が多数集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約320m(水面は約400m)
訪問:2009年5月
旧徳山村の中心集落。徳山ダムの人造湖(徳山湖)に水没している。
かつては旅館や多くの商店が並び、村役場・徳山小学校・徳山郵便局・徳山農協などの諸機関があった。寺院は曹洞宗増徳寺。氏神は白山神社(「角川」より)。
漆(うるし)谷付近の湖畔には「本郷集落略史」の碑(写真1。平成19年5月徳山区水没移転住民一同による建立)や白山神社の跡宮(写真2)があり、碑には説明文・年表、裏には世帯主の氏名と地図も記載されている。以下は説明文と年表(明治以降を抜萃したもの)。
徳山の地名は坂上田村麻呂四代の孫坂上大宿禰宜貞守が時の帝に鶯と巣を献上し鳥籠山の名と領地を頂戴し、その後貞守三十二代の孫徳山二郎右衛門金吾貞信が徳の山と称し徳山を号したのが始まりである。
旗本徳山家は代官所も設置し大政奉還まで領主として大野 池田の二郡八郷のうち徳山村を支配していたまた八郷の政治経済の中心的な存在から本郷ともいう。本郷には昔から「伊右衛門 喜右衛門 重郎右衛門 あの山越えて勘左衛門」と伝わる唄があり、この人達の祖が切明け者と言われている。
先土器・縄文土器・弥生時代の石器・土器・利器も発見されており、古くから人々の足跡が認められている。
眼下の湖底東経一三六度二八分 北緯三五度四〇分海抜三二〇米【徳山村役場地点】には家並図に記される如く百四拾七世帯の住民が平和に生活を営んでおり先祖代々から少ない平地ながらも広大な山頂山腹の平面を巧みに開拓し農耕してきた。谷の水はあくまで清く山は蒼く美しく春は梅 桃 梨 躑躅 石楠花がいっせいに咲き出し正に桃源郷であった。
然るに国策によりダム建設が計画され住民は痛切極まりない切なさをもって住み慣れた古里の歴史 文化 生活 あの風景 あの思い出と共に永遠に離別するに至った。
集落歴史年表(明治以降を抜萃・改変)
明治6.8.28 |
伝芳舎設立増徳寺を借り受け教場とする |
明治23.4.1 |
徳山郵便局開設 |
明治31.3.17 |
秋葉神社建立 |
明治35.7 |
巡査駐在所設置 |
明治42.12 |
徳山小学校本校校舎設置される |
明治44.12.26 |
徳山村役場新築される |
昭和22.7.10 |
大火で50戸全焼 |
昭和29.5.13 |
大火で118戸全焼。役場・診療所・小学校・農協等も類焼 |
昭和48 |
水資源開発基本計画徳山ダムが公示 |
昭和58.11 |
水資源開発公団と一般補償基準妥結 |
昭和62.3 |
徳山村廃村藤橋村に合併 |
平成1.3 |
全147世帯の移転始まる |
平成12 |
住民の移転完了 |
なお大字徳山は近世の大野郡徳山村。明治22年池田郡徳山村(明治30年揖斐郡)の大字となる。明治2年50戸282人、同14年64戸366人、同22年71戸411人、大正105戸589人。
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