◆大平(おおだいら)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「妻籠」(昭和22.2)を使用したものである
所在:飯田市上飯田(かみいいだ)
地形図:兀岳/妻籠
形態:谷の合流部に家屋が集まる
標高:約1,140m
訪問:2013年11月
大字上飯田の中部、阿知(あち)川支流の黒川上流にある。上飯田地内ではあるが、飯田峠を挟んで他の地域(松(まつ)川流域)とは隔たれている。飯田の中心部と中山道の妻籠(つまご)宿(南木曽町)とを結ぶ「大平(おおだいら)街道」の道中にあり、宿場「大平宿」として重要な役割を担った。村社は諏訪神社。
以下は資料『大平史』より。
大平開拓の草分けは、近江出身(現在の東近江市君ヶ畑(きみがはた))の木地師・大蔵五平治とされる。 さきに入地していた大蔵氏は飯田の山田屋新七に働きかけ、宝暦4(1754)年3月開発の願書が提出された(4月開墾開始)。宝暦5年には、大蔵五平治・山田屋新七ら7戸が定住
寛政11(1799)年28戸、安政3(1856)年28戸170人、 明治6年4月13日、大平第三番小学正道学校開校。当時39戸
大正年間75戸超。最盛期。昭和35年38戸176人
近代の主な生業は、宿泊業のほか山林業や養蚕。車輛交通の発達(鉄道や国道)に伴い宿場としての存続は困難となり、また薪炭の需要も減少し戸数も減少。住民は協議を重ね、集団移住を決意。昭和45年、28戸全戸が離村し無住となる。
現在は「いろりの里 大平宿」として、NPO法人により古い家並みの維持管理やイベント活動が行われている。事前の申し込みにより、古民家に宿泊することも可能。現地には多くの古民家が建ち並び、無住となった後もその景観が保たれている。
以下は集団移住記念碑(写真10)の全文(『大平史』の写真からの転載。【 】内は画像が小さいため判断がつかず、推測で埋めたもの)。
大平地区は享保年間の頃 惟喬親王の後裔で菊花【御紋章入】のお墨【附】をもつ木地屋による原野開墾に【始】り その後旧飯田藩の奨励により宝暦二年家【居】三戸が新築されて此処に【当】地の開拓となつたと伝えられる
往時はこの地を高冷農業地の【楽】土とすべく【辛苦】するに あるときは街道筋の【本格】改修により宿場として大いに栄え またあるときは山林資源によつて豊かな生活も支えられた 然れども時代の変遷とともに【基因】する地勢気候等恵まれない自然条件故に日常生活は次第に困難となり加うるに農林業も生産性は低く近い将来での発展向上は望むも困難との区民の判断と総意により ここに長野県および飯田市の援助指導を得て本地区二百五十余年の歴史に名残りを告げて全戸移住を【為】す 時に由緒ある【左】の土地は共有地として存置する
【村】社諏訪社境内境外地および山林
大山【祇】社 境内および山林
昭和四十五年十一月三十日
離村直前の家(28戸)と転出先は以下のとおり。居住地については市の斡旋・独自の選定・身寄りなど様々。
長野 |
飯田市 |
上飯田(6) |
岩島・原・麦島・大蔵・麦島・大蔵 |
大蔵某は上郷町の一時居住を経たのち |
松尾地区(3) |
坂井・大蔵・大蔵 |
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伊賀良地区(2) |
大蔵・坂井 |
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知久(1) |
麦島 |
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下伊那郡高森町(7) |
山際・大蔵・大蔵・可児・可児・麦島・深見 |
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下伊那郡上郷町(1) |
大蔵 |
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上伊那郡南箕輪村(1) |
深見 |
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木曽郡南木曽町(1) |
井戸 |
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岐阜 |
中津川市(2) |
大蔵・大蔵 |
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愛知県(2) |
加藤・麦島 |
麦島は「一時落着先」とある |
埼玉県(1) |
麦島 |
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大阪府(1) |
岩島 |
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