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◆田倉俣(たくらまた)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「冠山」(昭和26.3)を使用したものである

所在:南越前町桝谷
地形図:広野/冠山
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:豪雪等。最終はダム建設?
標高:約300m(水面は約340m)
訪問:2012年11月

 

 大字桝谷の中部やや北寄り、桝谷川上流にある。現在は桝谷ダムの人造湖(ますたに湖)に水没。
 町誌によると、集落の起源は滋賀県永源寺町【現・東近江市】君ヶ畑(きみがはた)から分かれた木地師の定住と伝わり、往古は木地職専門で暮らしていたという。近代に入っても豊富な山林資源を利し、木材を杪(※1)や割木として売り、大正から昭和前期頃まで製炭に従事。山畑で雑穀を栽培していた。木炭の需要の減少や、昭和38年の豪雪、さらに大河内岩谷
の離村が加わり、昭和47年4月一応の集落解体を見る(※2)大小場
との峠の上に大山咋神社があったが、昭和47年町内今庄の新羅神社に合祀。なお桝谷が明治44年に就学免除が解かれた際、桝谷地内に堺第二尋常小学校(のちの堺東小学校)の冬期分校が置かれたとのことだが、位置(田倉俣か大小場か)や廃校の時期は不明。
 町誌の
住宅地図に記載されている家は9戸(すべて山田姓)。転出先は武生市【現・越前市】4・町内2・鯖江市・敦賀市・名古屋市各1。「田倉俣集落跡記念碑」(写真2)では8戸だが、併設の「集落構図」(写真3)には山田家12戸が描かれている。碑文は大小場と同じものを流用しているため省略(大小場のページを参照)。
 なお碑が置かれているのは、集落付近より約500mほど下流。

※1 ルビがなく読みは不明。本来の字義(=こずえ)とは関係なく、現地では木材に関する言葉にこの字を充てたのだろう。材を板状にしたものか
※2 この後も残存世帯があり、刊行当時(昭和54年)でも桝谷全体で5戸の高齢世帯が残り、森林や農地の管理をして暮らしていた

 


写真1 桝谷ダム

写真2 碑

写真3 写真2の地図

写真4 集落付近?

写真5 何かの遺構(写真中央)

 

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