◆岩谷(いわや)
所在:南越前町岩谷
町の南部、岩谷川沿いにある。 集落の起源は、木地師の定住とされる。往古は木地職専門で生計を立てたが、幕末から明治にかけては狭いながらも谷あいに水田を開き、また焼畑でアワ・ヒエ・ソバ・豆類などを栽培。近代以降は木地を細々と継続する傍ら製炭に従事。戸数8戸は岩谷創始の頃から変わらないという。燃料革命により木炭の需要が減少し、さらに昭和38年の豪雪がきっかけとなり離村が急速に進んだ。翌年にはほとんどの住民が離村。同50年には残っていた住民も離村。神社は稲荷神社であったが、昭和39年3月町内今庄の新羅神社に合祀。また地内にあった「夜叉ヶ池青少年旅行村」は、昭和46年着工、同53年竣工。
また学校の沿革は以下のとおり。
※ 「角川」では大正13年 なお大字岩谷は近世の南条郡岩屋村。明治に入ると「岩谷」と記される。明治22年鹿見村(のち堺村→今庄町)の大字となる。大正9年9戸58人、昭和10年9戸61人、同30年6戸35人。昭和53年に完成した夜叉ヶ池青少年旅行村がある(角川)。 集落は狭隘な谷沿いに位置し、右岸の僅かな平坦地に家々が集まっていたよう。現在も対岸から数棟の家屋が確認でき、学校もここにあったようだが探索はせず。なお左岸にも段になった平坦地があり階段もついているが、何があったかは不明(写真2)。集落近辺では戦歿者の墓が2箇所見られ、それぞれ藤田氏・山田氏のもの。先述の「夜叉ヶ池青少年旅行村」は現在営業していないが、集落上手、右岸の平坦地がその跡地だろう。
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写真1 対岸の家屋 |
写真2 階段 |
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写真3 農地跡 |
写真4 石仏 |
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写真5 墓 |
写真6 墓 |
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写真7 看板(「旅行村」全容が描かれる) |