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◆上板取(かみいたどり)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「今庄」(昭和21.10)を使用したものである

所在:南越前町板取
地形図板取/今庄
アクセント:カミイタドリ
形態:谷沿いに家屋が並ぶ
離村の背景:移転事業?
標高:約310m
訪問:2012年11月

 

 町の西部、日野(ひの)川支流の孫谷(まごたに)川上流部にある。古くは北陸道の宿駅「板取宿(いたどりじゅく)」として栄えた。
 以下は町誌より。

集落の起源は木地師の定住か。谷間の狭い地に田ができ、自給自足の体制が整う。当時は焼畑や木地産物によって暮らしていたよう
天正7(1579)年、柴田勝家が現在の栃ノ木(とちのき)峠を通る道を大改修し、木ノ芽(きのめ)峠を越える道に代わり北陸道の主要道となる(北国街道)。旅人の往来が繁くなるにつれ村人の生活は次第に変化。宿駅が開設され、宿場としての集落へと大きく変貌した
慶長年間(1600年前後)には上板取に関所も設けられ、また越前―近江国境として重視され、番所(藩の役人の詰所)が通行人を厳重に取り締まった。この頃には人馬継立の問屋・旅籠・茶店が街道に沿って立ち並び、大いに賑わった

 現在集落は整備保存されており、板取宿の面影をかすかに垣間見ることができる。ただし集落下手は手付かずの家屋が残っていたり、畑が作られていたりと、離村時そのままの風景が広がっている。集落上手には茅葺き家屋が4棟建ち、訪問時は葺き替え作業も行われていた。
 現地で会った元住民(92歳)の話によると、無住になったのは昭和44、5年頃(※)。それ以前に昭和30年代の火事で多くが転出していったという。現在残っている茅葺き家屋の辺りが延焼の境目であった。生業は炭焼きを主とし、山畑で雑穀を作って生活。なお現在の茅葺き家屋は県により保存されているもの。町が居住者を募集し県外から数組が移り住んだが、現在は1軒のみが住んでいる

 なお寺院は明王山輪光(りんこう)寺(浄土宗)で、享保年間創立。明治44年まで分校校舎として一部が使用された。現在建物はないが、付近は墓地になっている。また町誌の住宅地図には、寺田6・村田4・増尾3・松田2・有賀・岩桜・垣本・坂元・佐野・竹沢・津田・中村・西尾・西村・水口・山越・山下各1の計28戸が記載されている。このうち墓地で確認できたものは、寺田・村田・増尾・佐野・西尾・西村各家。古くて判読できないものもある。

※ 移転事業による集団移転とのことだが、事実が確認できず

 


写真1 寺院跡付近の墓地

写真2 墓

写真3 墓

写真4 蔵と畑

写真5 祠と廃屋

写真6 屋敷跡

写真7 茅葺き家屋

写真8 葺き替え作業

写真9 関所跡

写真10 国道沿いの碑

 

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