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◆芋ヶ平(いもがだいら)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「冠山」(昭和26.3)を使用したものである

所在:南越前町瀬戸(せと)
地形図:古木/冠山
形態:谷沿いに家屋が集まる
離村の背景:豪雪等
標高:約280m
訪問:2012年11月

 

 大字瀬戸の東部、芋ヶ平川沿いにある
 町誌によると、集落の起源は木地師の定住。滋賀県永源寺町【現・東近江市】の君ヶ畑から分かれた轆轤師たちがその祖と伝わり、徳山村【現・揖斐川町】や高倉から移り住んだ。定着した住民は伐採の跡地に焼畑を作り、農耕と木地作りを営む。後年は木炭・葛根・養蚕・冬期の出稼ぎを主たる収入源としていた。明治28・29年の洪水によって山林が保安林に指定されたため、焼畑や製炭を極度に制限され生活が苦しくなった。住民が県に願い出たところ、現在の春江町【現・坂井市】の近郷に移住を勧められ、このとき28戸中13戸が分村。大正10年頃池田町尾緩の加藤氏の設計により自家発電所が完成。電灯が灯る。その後昭和15年北陸配電(当時)の本線が引き込まれた。木炭の需要の減少・昭和38年の豪雪により離村が進む。昭和40年以降はほとんどが武生市【現・越前市】周辺に移住した。神社は熊野神社。寺院は教念寺(浄土真宗)。
 同書の住宅地図には、山田13・長谷川3・田中2・山友2・石盛・上田・岡田・小垣・沢田・清水・高嶋・西嶋・広田・宮下各1の計30戸が記載されている。
 以下は学校の沿革。

 明治34.2  方正小学校の芋ヶ平分教場として設置認可
 明治35  宅良東尋常小学校芋ヶ平分教場となる
 大正9  宅良尋常小学校芋ヶ平分校となる
 大正11  宅良尋常高等小学校芋ヶ平分校と改称
 昭和16  宅良国民学校芋ヶ平分校と改称
 昭和22  宅良小学校芋ヶ平分校と改称
 昭和47.3  廃校

 以下は戸数・人口の変遷。

  明治30 明治45 昭和元 昭和15 昭和30 昭和40 昭和50 昭和53
戸数 32 26 27 26 26 26 2 0
人口 280 201 202 171 135 110 2 0

 集落に既に家屋はないが、「蓮如上人の里」として参拝者があるようで、地図画像の「寺院」付近には碑や石像が集まり整備されている(写真1)。道路脇から山林に入るといくらかの屋敷跡が確認できるが、一部を除き荒れたまま。支流を遡ると蓮如が匿われ身を隠したといわれる巌窟(写真9)がある。なお学校は集落入口の橋を渡ってすぐ左手にあったようで、地図画像の位置からは移転しているよう。
 瀬戸で伺った話では、無住となる直前は年配の女性のみの2世帯であったという。炭焼き・田・林業などが主な生業。小学校の学区は芋ヶ平一円で、多いときには25人くらいの児童が在籍していた。

 


写真1 集落にて

写真2 戦歿者の墓(集落下手)

写真3 墓地(集落入口付近)

写真4 屋敷跡と墓

写真5 屋敷跡

写真6 屋敷跡

写真7 神社跡

写真8 巌窟前の風景。左は鐘楼

写真9 巌窟

写真10 写真9内の像

 

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