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◆美濃俣(みのまた)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「大野」(昭和22.2)を使用したものである

所在:池田町美濃俣
地形図:宝慶寺/大野
形態:谷沿いに家屋が集まる
離村の背景:災害
標高:約520m
訪問:2012年11月

 

 町の南東部、水海(みずうみ)川の上流部にある。
 町史によると、主な産業は炭焼きや農業。農地は田のほか、山畑や焼畑。農閑期には男性は京都伏見などへ酒造りの出稼ぎに行き、女性も明治から大正にかけては大阪や名古屋などの紡績工場に出稼ぎをしていた。安政2(1855)年22戸122人、明治41年32戸229人、昭和4年31戸188人、同50年0。同書記載の「要図」には、林8・橋本5・宮本4・梅田3・山口2・仲村1の計23戸が記載されている。昭和34年4月23日に集落の上手で地辷りが発生し、これを機に全戸が離村。大正14年8月に設置された自家発電所も埋没した。転出先は町内8・福井市6・武生市【現・越前市】4・織田町【現・越前町】4・その他5。
 以下は学校(池田第一小学校美濃俣分校)の沿革。

 明治11  又新小学校創立
 明治25  水海小学校美濃俣分教場となる(「角川」では明治19年)
 明治35.3  谷口尋常小学校美濃俣分教場と改称
 明治39.2  水海尋常小学校美濃俣分教場と改称
 明治40.12  上池田尋常小学校美濃俣分教場と改称
 昭和16.4.1  上池田国民学校美濃俣分教場と改称
 昭和22.4  上池田小学校美濃俣分校と改称
 昭和30.3  池田第一小学校美濃俣分校と改称
 昭和37.3  閉鎖

なお学校は左岸の神社そばにあったよう。
 集落では植林地の中にいくらかの屋敷跡が確認でき、神社の跡には「藥師神社之趾」の碑などいくらかの人工物が集まっている。学校跡は未確認。墓では梅田・林・山口といった姓が見られた。
 大字美濃俣は近世の今立郡美濃俣村。明治22年上池田村(のち池田村→池田町)の大字となる(角川)。

 


写真1 集落入口

写真2 集落内の広い道

写真3 遺構

写真4 屋敷跡

写真5 遺構

写真6 開けた区画

写真7 屋敷跡の入口

写真8 遺構

写真9 集落内の道

写真10 遺構

写真11 神社・石段

写真12 神社跡の碑と石仏

写真13 碑。「御大與」とある

写真14 戦歿者の墓

 

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