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◆茗ヶ島(みょうがしま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「八尾」(昭和32.10)を使用したものである

所在:富山市八尾町茗ヶ島(やつおまち―)
地形図:山田温泉/八尾
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約250m
訪問:2011年6月

 

 村の南西部、大長谷(おおながたに)川沿いにある
 「角川」に引用されている『婦負郡誌』によると、地名の由来は開拓当時河川に囲まれ島の形に見え、茗荷が多く自生していたので茗ケ島と称したという。
 ダムに堰き止められた水が途切れ、川本来の姿が現れてくる辺りが集落跡。川岸に沿って所々平地が見られるが、これらにはかつて何軒もの家が建っていた(2011年11月、険酷隧様より水没前の住宅地図の画像を送っていただきました)。茗ヶ島橋を渡り、発電所方面に降りると神社(神明社。茗ヶ島757番地)
(写真3)のある小山の下に着く。
 『続八尾町史』によると、当時の16戸のうち9戸が水没。他の7戸も耕地の大部分を失い、生活基盤が失われるために転出を余儀なくされたよう。移転先は町内6戸、婦中町【現・富山市】6戸、大沢野町【同】1戸、富山市1戸、その他県内1戸、県外1戸。また児童の学区は明治9年6月から同20年3月まで弘明小学校(のちの大長谷(おおながたに)小学校栃折(とちおり)分校)、以後中島地小学校(のちの大長谷小学校)、明治25年からは仁歩小学校(ただし同年2〜3月は土玉生分教場)。
 また資料『村の記憶』によると、無人化は昭和35年。水没は4戸としている。田畑は少なく、出稼ぎで収入を得る家が多かったという。
 以下は『仁歩郷土誌』より集落にあった家。

  屋号 備考
1 アジチ 松永 左岸、水没(※)
2 オモヤ 村中
3 ゼンベイ 村上
4 タンボ 松永 左岸谷奥
5 タンバタ 西村 左岸
6 キタ 松崎
7 ニシ 西村
8 ワカサ 若島
9 イワイダニ 松永 右岸谷奥
10 キサブロ 村中 右岸
11 ミズカミ 水上
12 ダイラ 松永
13 イイジロ 西村
14 ハシド 村上
15 コショウズ 茗島 左岸神社付近
16 アライ 河畠

※ 水没は当方の判断による。水没世帯は4軒とあり、1〜3は下流に集まっており容易に分かるが残りの1軒は不明

 大字茗ヶ島は近世の婦負郡楡原(にれはら)郷の茗ヶ島村。明治22年仁歩村(のち八尾町)の大字となる。慶応4年8戸48人、昭和5年16戸87人、離村時16戸89人(角川)。

 


写真1 川沿いの平地

写真2 屋敷跡

写真3 神社

写真4 吊橋の遺構
※ 以下3点の画像は、険酷隧様より提供していただきました

写真5 石段


写真6 遺構


写真7 旧茗ヶ島橋付近
※ この画像は、写真所有者様から険酷隧様を介し提供していただきました

 

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