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◆河内(かわち)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「五百石」(昭和32.3)を使用したものである

所在:富山市河内
地形図:千垣/五百石
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約390m
訪問:2011年6月

 

 熊野(くまの)川上流左岸にある。槍(やり)ヶ岳を開山した僧・播隆(ばんりゅう)上人生誕の地。
 集落は川に沿って屋敷跡や農地跡が細長く並んでいる。現在は八幡神社(写真1)が残るほか、播隆の生家(写真2)には顕彰碑が建っている。ほか物置小屋や簡素な家屋が数軒、墓地も2、3箇所見られる。
 以下は「顕頌之記」の全文(■は撮影の具合で判読できなかったもの)。


播隆上人 越中河内村中村順信次男としてこの地に出生 佛道に志し諸国を巡錫独修独行 文政六年飛騨
迦多賀嶽即ち笠ヶ岳を再興 難路を拓き恭しく頂上に佛像を安置。槍ヶ岳の天際に聳え立つを仰ぎ登拝の念■(渤?)々として止み難く信州より入山すること数次。辛苦を重ね文政十一年七月三十日遂に峻嶮の絶頂を極め佛像を奉安して感涙に咽ぶ ウエストンの槍登頂に先立つこと実に六十有■(亙?)年 天保■(二?)年生家念佛道場再興。播隆さらに万人槍ヶ岳禅定のため東西に志を募り藩吏農民の迫害に屈せず天保十一年八月宿願の鉄鎖山壁取付け成る 同年十月二十一日美濃太田にて大往生 享年五十九 不屈の越中魂よく未踏の峻岳を開き山岳渇仰の清志永く岳界を奮ひ起たしむ
 世の人の 恐れ憚る槍の穂も やがて登らん われにはじめて


 資料『村の記憶』によると、無人化は昭和37年。家は下流より林・河上・福田2・河上・岡本・中村・河上・岡本3・林(12軒)。炭焼きや農業・屋根板の生産が行われていたという。
 なお大字河内は近世の新川(にいかわ)太田荘の河内村。明治22年大山村(のち大山町)の大字となる。

 


写真1 神社

写真2 播隆生家跡(中村家屋敷跡)

写真3 物置小屋

写真4 屋敷跡と「離村の記」

写真5 小屋

写真6 墓と小屋

写真7 屋敷跡の入口

写真8 墓

写真9 石仏

写真10 墓地跡の碑(中村家)

 

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