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◆鷹ノ巣(たかのす



※ 明色部(暗色部は福島県)
※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「檜枝岐」(昭和44.3)を使用したものである

在:魚沼市下折立(しもおりたて)
地形図:会津駒ヶ岳
/檜枝岐
形態:各項目参照
標高:各項目参照
訪問:2023年6月

 

 大字下折立の東部、只見(ただみ)川の左岸にある。

 資料『湯之谷のあゆみ』によると、明治40年に銀山拓殖株式会社の開拓事業に応募して入植した人々が折立から4、5戸あり、大正4、5年に福島県から3戸入植したとのこと。ゼンマイ採取・農業・山稼ぎ・冬期の木工品作りが主な生業であった。
 奥只見ダム建設に伴い下流のごく一部が水没したが、このとき12戸(昭和37年完成)。ダム建設前は只見川や北ノ岐川沿いの道を利用していたが、その
後は八崎まで船で行き、資材輸送用のトンネル(後のシルバーライン)を車で通り抜け、これまで2日がかりであった里までの道のりが2時間に短縮された。
 明治末期の入植以降長らく学校は開設されなかったが、昭和6年6月、折立尋常小学校の分教場が浪拝と鷹ノ巣に開設した。当時は夏季のみで、教師はおよそ12qも離れた2つの教室を交互に巡回して指導した。昭和29年からは通年で授業をするため教員も越冬することとなり、小中合わせて4名の教員定数が配当された。水没地域の人々がほとんど下山した34年頃、小学生17人・中学生8人。
 
昭和42年11月集団移転。村により井口新田(いのくちしんでん)に設けられた公営住宅に全戸が移住した。分校も閉鎖。しかし生活基盤はあくまで鷹ノ巣であり、春の雪解けとともに鷹ノ巣に戻ると山菜を採り、木工品を作り、秋にはなめこなどの採取で収入を得た。そのため離村した翌年から夏季のみではあるが分校が再設置されている(昭和48年には閉校)。校舎は宿泊施設に改装する計画があったが、実現しないまま昭和56年の大雪で倒潰
 昭和62年には本格的な電気導入事業が進められ、9月に完成している。
現在は山菜の採取のほか、山林の手入れ、宿泊施設やキャンプ場の経営などが行われている

 以下は資料『ふるさとのアルバム』より小学校の沿革。

 昭和3  (民家で寺子屋式の教育を開始〔ただし国語のみ〕『湯之谷のあゆみ』)
 昭和6  折立校鷹ノ巣分教場開校。星氏宅を仮校舎とする
 昭和24  校舎新築
 昭和31  東湯之谷小学校鷹ノ巣分校となる
 昭和32  校舎改築
 昭和42  閉校
 昭和43  井口小学校鷹ノ巣夏季分校開校

 昭和48

 閉校

 なお昭和24年、第二湯之谷中学校鷹ノ巣分校が開校している(昭和42年閉校)。


 また資料『檜枝岐の暮らしと地名』によると、ダム建設前の鷹ノ巣は檜枝岐経済圏であったとのこと。質の良い木工品・仕事道具などは檜枝岐の井桁屋などから購入し、収穫した蕎麦や稗・大豆は檜枝岐に売った。また農協とも取り引きがあった。只見湖ができてからは檜枝岐半分、新潟半分の経済圏となったという。

 なお『湯之谷のあゆみ』や以下の資料より、当地は上流より・杜呂(とろ・どろ?)・鷹ノ巣・ブドウ平(―だいら)(葡萄平)・小白沢(こしろさわ)・昼場(ひるば)(昼ノ場(ひるのば))・原ノ沢の小地区に分かれていたことが分かる(※1)。これらの地名は戦後になってから総称して鷹ノ巣と呼ばれてきたとのこと。

 登山ガイド『尾瀬と檜枝岐』(昭和18年)には、「…只見川左岸に沿ひ鮠止(はよどめ)の瀑をすぎれば晝の場(ひるのば)に一軒、小白澤に四軒、葡萄平に一軒、鷹の巣に三軒、杜呂(とろ)に一軒以上の開墾地があり、これらは何れも越後領である」とある。
 同じく『尾瀬 第二部』(昭和23年)には、「…原ノ澤に一戸、晝ノ場に一戸、小白澤に四戸、葡萄平に一戸、鷹ノ巣に清四郎小屋とて登山者の泊る星清四郎方他二戸、杜呂(どろ)に一戸人家があり…」とある。
 さらに『尾瀬高原 ニュー・マウンテン・ガイドブックシリーズ1』(昭和38年)には、小白沢について「戸数が六戸で、おもにソバやアワをつくっている。星門治さんのお宅は雑貨屋で…」、葡萄平について「戸数は三軒で、中小学校の分校があり、先生三名に生徒二二名の小人数である」、鷹ノ巣について「かなりひろい平地で田や畑もあり、戸数は七戸。とっつきの家が登山者にお馴染の星清四郎さんのお宅である」、杜呂について「民家はたった一軒だけで、銀山平拓殖会社の建物と対岸に営林署の小屋があるだけである」とある(※2)

※1 『湯之谷のあゆみ』では、杜呂は「杜呂林(とろばやし)」の表記、小白沢の読みは「こしらざわ」となっている
※2 昼場〜鷹ノ巣までの集落について混同があると思われ(「小白沢に分校がある」など)、ここでは記述内容から『尾瀬と檜枝岐』等の資料と整合させた

 

 訪問時は小地区の別をあまり意識していなかったため、原ノ沢は未訪問、昼場は通過したものの未確認。

 


≪杜呂≫



※ 位置は推定
※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「檜枝岐」(昭和44.3)を使用したものである

形態:川沿いの一軒家
標高:約840m

 

 鷹ノ巣の最奥に位置する集落。文献の「人家が1軒」という記述や、最も上流部に位置しているということから、上台倉沢・下台倉沢の間にあるこの地域と推定。
 現地には管理家屋が1軒残るのみ。

 


写真1 家屋


≪鷹ノ巣≫

 

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「檜枝岐」(昭和22.11)および国土地理院発行の同地形図(昭和44.3)を使用したものである

形態:川沿いの平坦地家屋が集まる
標高:約820m

 

 松坂沢合流部より南側の家屋群。鷹ノ巣全体では最大規模の集落。
 現地には山荘や鷹の巣高原キャンプ場、鷹の巣バス停がある。訪問時は滞在者や出入りする人も複数見られ、往来が多いことが窺える。なお最近の地形図でも神社の記号が記されており、これは現存(写真10)。
 資料
『檜枝岐の暮らしと地名』によると、当地にある「清四郎小屋」は、檜枝岐村から入植した星弥七により昭和3年設けられた自炊用の小屋であったとのこと。「清四郎」は星氏の屋号で、小屋には尾瀬や檜枝岐に行く人が立ち寄ったという。なお星氏は、明治35年檜枝岐キリンテ近くにあるエセ沢の大洪水を契機に、大正3〜4年頃入植した。

 


写真2 集落風景


写真3 山荘

写真4 キャンプ場

写真5 バス停

写真6 鷹ノ巣地区防災資機材庫


写真7 屋敷跡


写真8 牧草地?

写真9 小屋

写真10 神社の祠


≪ブドウ平(葡萄平)≫



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「檜枝岐」(昭和44.3)を使用したものである

形態:川沿いの平坦地に家屋が集まる
標高:約780m

 

 小代沢合流部より南側の家屋群。文献での記載順序や軒数、文献の赤岩平(福島県檜枝岐村)の対岸という記述からこの地域と断定。
 数棟の小屋があるが、家屋の類は見られない。学校跡は訪れていた方に教えていただいた(写真16-18)。上段に校舎、下段に校庭があったとのこと。後者は1970年代の航空写真でも確認できる。

 


写真11 集落風景

写真12 屋敷跡

写真13 倉庫

写真14 共同集荷所施設

写真15 慰霊碑?

写真16 学校跡

写真17 同。設備の遺構

写真18 同。校庭跡

写真19 小屋

写真20 
赤岩平(福島県檜枝岐村)を望む

≪小白沢≫

 

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「檜枝岐」(昭和22.11)および国土地理院の同地形図(昭和44.3)を使用したものである

形態:川沿いの平坦地に家屋が集まる
標高:約780m

 

 小白沢とヒルバ沢の間にある地区。文献の記述のほか当地に小白沢バス停があることや、「小白沢ヒュッテ」があること、聞き取りからこの地域と断定。なお大正3年の旧版地形図では当地に「晝場」と記されているものの、昭和21年のものでは「小白澤」に変更されている。
 現地には先述の山荘のほか、夏期に滞在し山菜等を販売する家も1軒ある。

 


写真21 集落風景

写真22 山荘

写真23 バス停

写真24 廃屋

写真25 農地跡

≪昼場≫



※ 明色部。位置は推定
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「檜枝岐」(昭和21.11)を使用したものである

形態:川沿いの一軒家
標高:約770m

 

 ヒルバ沢と胴抜ノ沢の間にある地区。文献での記載順序や軒数、対岸に渡る橋が「昼場橋」であることからこの地域と推定。
 通過したものの現地は未確認。1970年代の航空写真では、国道と橋に通じる枝道との丁字路に建物が1棟見られる。

 

 

◆◆写真はありません◆◆

 


≪原ノ沢≫



※ 明色部。位置は推定
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「檜枝岐」(昭和21.11)を使用したものである

形態:川沿いの一軒家
標高:約720m?(水面は約740m)

 

 只見川と原ノ沢との合流部付近にあると思われる。現在は奥只見ダムの人造湖(奥只見湖)に水没。
 昭和22年・同28年の航空写真では、当該場所に小型の建物が1棟見られる。

 

 

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