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◆亀塚浜(かめづかはま



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「新潟」(昭和22.3)を使用したものである

在:聖籠町東港(ひがしこう)二丁目
地形図:松浜
/新潟
形態:平坦地に家屋が多数集まる
離村の背景:地域開発

標高:数m
訪問:2018年5月

 

 東港二丁目の北部にある。現在は新潟東港臨海工業地帯の区域内で、全域がゴルフ場の敷地内となっている。開発区域内では最も規模の大きい集落であった。
 町史および資料『聖籠町苦節四十年の歩み』によると、新潟東港開発に伴い、昭和53年から55年までに全318戸が移転したとのこと。
昭和50年318戸1,497人
 
昭和47年8月より移転に関する説明が始まり、同51年11月に県と移転に関する基本調定を、同53年4月には細目協定を締結移転先は町内網代浜(あじろはま)と次第浜(しだいはま)の中間に新たに造成され、この移転先には新たに大字「亀塚」が設けられた。亀塚のほか二本松(にほんまつ)の正庵(しょうあん)にも少数が移転している、昭和55年11月9日移転記念式挙行。のち大字としての亀塚浜も解体し、旧区域は現在東港一〜三、六・七丁目および位守町(いもりちょう)に属している。
 旧来からの主な生業は、沿岸漁業と農業。
また近世初期には製塩が盛んに行われていた。
 
「角川」によると、大字亀塚浜は近世の蒲原郡亀塚浜村。明治22年亀代村の大字となる(昭和30年聖籠村、同52年聖籠町の大字)。天和3年23戸167人、明治初頭70余戸、明治22年112戸808人。村の開祖は7軒と伝えられ、塩焚き・漁業・開拓を推奨した新発田藩の施政により、信濃・加賀・能登や中蒲原・新潟方面よりの移住者によって形成されたもの。
 なお当地にあった亀代小学校亀塚分校は、明治8年11月松ヶ崎校付属校の亀塚校として開設(※)。明治18年網代小学校(のちの亀代小学校)第二分場となる(「角川」)。昭和53年、次第浜分校とともに本校に統合し閉校。
 また昭和40年4月には亀塚浜保育所が開設。同46年廃止され、亀塚浜児童館が開設した。
 なお東港開発の主な経緯はこちらを参照。

 訪問時は、臨海西公園の展望台より集落跡方面を望んだのみ。

※ 町史・「角川」より。亀代小学校ウェブサイトでは、明治12年4月「松ヶ崎浜校支校亀塚分場として設立」

 


写真 集落方面を望む(臨海西公園の展望台より撮影)

 

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