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◆三面(みおもて



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「塩野町」(昭和22.2)を使用したものである

在:村上市三面
地形図:三面
/塩野町
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約200m(水面は約220m)
訪問:2017年11月

 

 大字三面の南部、三面川沿いにある。現在は奥三面ダムの人造湖(あさひ湖)に水没。
 ダム周辺に散在する看板や碑などの情報によると、水没時は42戸。ほとんどが伊藤・小池・高橋の3姓であった。集団移転先は村上市。
 集落は
完全に水没し、通常時は痕跡の確認はできない。ダムサイトには「三面川の恵みを永久に」と題した石碑(平成18年設置)(写真2)、集落跡付近の「三面メモリアルパーク」には「三面由来碑」(平成12年設置)(写真3)が置かれ、ダムや集落の概要を知ることができる。以下は「三面川の恵みを永久に」の碑文。


 朝日連峰以東岳に源を発し 村上市で日本海に注ぐ三面川は 豊かな水量を誇り時に水禍をもたらすものの 古くから沿川の田畑を潤し 鮎や鮭の恵(本文ママ)を与え 常に人々の暮らしを支えてきた母なる川である
 想えば戦後の逼迫する電力の供給と沿川の洪水を防ぐため昭和二十八年に三面ダムが完成 その後 昭和四十二年の羽越水害を契機に昭和四十四年カネツボ渓谷に奥三面ダムが県内初のアーチダムとして 奥三面発電所と共に計画された
 ダム湖底となる三面集落は 先祖伝来の地を提供され昭和六十年に集団移転 平成三年にはダム本体工事に着手 出水や地すべりなど幾多の困難を乗り越えながら関連する工事を進め 平成十三年十月に三十三年の歳月と一千億円を費やし竣工 秘境奥三面は人々の憩いの湖として蘇った
 この地の住民 事業に携わった者らは志を同じくし 完成したダム・発電所が地域の安全・安心な暮らしと豊かな生活を守る礎となり 三面川の恵みをさらに増すことを永久に希い ここに記念碑を建立する


 また以下は「三面由来碑」の碑文。


 此処三面は、旧石器時代より人類の居住せし事、遺跡の発掘調査等により明かなり。
 中世に至り、此の地の平家の一族 小池氏及び泥又の伊藤氏元屋敷の高橋氏と三氏合流し、其の名も三面として長く住み来りしが、慶応四年戊辰(※)の役に於て兵火にかかり悉く焼失せしも自力を以て復興今に至れり。
 然るに、昭和三十年以降電気・水道等文明の恩恵に浴し、更には近代的学校の建築、次いでスーパー林道の完成により、陸路の交通可能と思われしに、同四十五年県営ダムによる治水案起こり、当初三面集落挙げて反対せしが、幾多の交渉の末、同五十九年七月移転補償基準妥結、同六十年閉校式、同八月墓地合同供養祭・昭和六十年九月十四日閉村式・之により、三面集落四十二戸其の名を記念碑に刻し、ここに開村以来約八百年の歴史を閉じ、家屋立木等総てを処分し、遠くは縄文の昔の諸霊及び先祖代々の諸霊位に対し、誠に申し訳なしと思いつつ、昭和六十年十月村上・豊栄其の他の地に移転するの止むなきに至りたり。
 尓来十五年遺跡の調査及び奥三面ダムの完成に伴い、今眼前に湖底に沈む三面を見て萬感胸に迫る。
 嗚呼

※ 本文では「戍辰」となっている


 集落跡を眼前に控える付替道路沿いには小屋が建てられているが、往時の住民が管理しているものだろうか(写真6)。
 
なお当地には三面第二小学校があったが、昭和60年閉校(HEYANEKO氏調べ)。

 


(写真1 ダム堰堤)


写真2 碑

写真3 三面メモリアルパークにて。「三面ここにありき」の碑(左)と「三面由来碑」(右)

写真4 集落跡付近を望む

写真5 往時の集落

写真6 小屋

 

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