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◆本蓼川(ほんたてかわ)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「藤澤」(昭和3.9)を使用したものである

所在:綾瀬市本蓼川字宮ノ越(みやのこし)・新道(しんみち)・稲荷山(いなりやま)ほか
地形図:座間/藤沢
形態:川沿いの斜面に家屋が集まる
離村の背景:基地の建設および騒音
標高:約40m
訪問:2024年3月

 

 大字本蓼川の中部、蓼(たて)川(引地(ひきじ)川支流)の左岸側にある。

 資料『蓼川・本蓼川の民俗』によると、蓼川地区に海軍航空隊の基地が建設されることになり、北側の上庭場(かみにわば)が移転を余儀なくされ昭和16年から19年にかけて転出、のち昭和38年度には基地に発着する飛行機の騒音や事故の危険を回避するために、残る下庭場(しもにわば)の全戸が移転したとのこと。
 上庭場では、まず基地の対象地域となった5戸のうち、2戸が下庭場の新道付近、3戸が他地域に移転。その後基地の拡張が行われ、山神社から北の12、3戸が移転対象となった。このうち8戸ほどが新道付近、他は現在の大和市福田(ふくだ)等に移転。
 戸数は上庭場に20戸程度で、すべて武藤姓。下庭場に10戸ほどで、姓は多田・伊東・池亀・落合・田辺など(移転直前は、上庭場からの転入者を含め22戸)。
 集落は蓼川左岸に沿って南北に通っていた「八王子道(塩つけ道)」に沿って家々が集まっていた。地区内で「中原道(中原街道)」が交叉し、この道は地元では「新道」と呼ばれていた(現在の県道に相当)。この新道沿いにも家々があり、下庭場に含まれていた。なお八王子道を北上すると蓼川の中分に至る。
 鎮守は上庭場の山神社。家屋移転に伴い深谷(ふかや)の深谷神社の境内に遷座した。
 山神社の西に、蓼川氏が管理する厳城院があった。蓼川氏は山神社の神主も兼ねていた。
 古くは薬師堂があったが、詳細は不詳。新道近くの六地蔵の付近といわれている。
 山神社近くの三叉路には、地神塔・地蔵・二十三夜塔などの石造物があった。
 明治期の主な生業は、農業と養蚕。主な産物は、繭・茶・大麦・小麦・粟・里芋・サツマイモなど。蓼川沿いには幅の狭い水田が連なっていた。
 商業を営む家も数戸あったが、移転者が記憶しているものでは水車を用いたヨリヤ(※)・染物屋・駄菓子屋・籠屋などであった。ワタヤ・アメヤ・イトヤなどと呼ばれる家があったのも、その商売の名残である。

※ 撚糸業のことか

 綾瀬・大和各市のウェブサイトによると、厚木基地は昭和13年に旧日本海軍が航空基地として定めたことから始まり、昭和16年より建設が開始され運用が始まったとのこと。終戦後の昭和20年9月2日、米軍に接収される。昭和46年、基地の一部が海上自衛隊に移管され、米海軍は「厚木航空施設」として、また、海上自衛隊は「厚木航空基地」として、日米共同の管理体制となった。

 「角川」によると、大字本蓼川は近世の高座郡本蓼川村。明治22年綾瀬村(のち綾瀬町→綾瀬市)の大字となる(飛び地は渋谷村〔現在の大和市〕の大字となった)。明治18年30戸、同24年27戸197人、昭和29年21戸154人、同56年11戸24人。

 現在上庭場の集落跡は、ほとんどが山林および太陽光パネルの用地となっている。基地脇に作られた道路に沿って作業場や畜舎などが見られるが、かつての宅地とはほとんど重ならないと思われる。先の資料では山神社近くの石造物は今も同じ位置にあると記されているが、これは未確認。
 下庭場も山林や工場・作業場・倉庫などとなっており、家屋の痕跡などは確認できない。地内に架かる立川(たてかわ)橋(写真6)は、先の資料によると旧県道のものであるとのこと。
 なお
1960年代の航空写真では、旧版地形図や資料に記された家屋群(字新道)とは別に、現在のスポーツ広場の北西側(字稲荷山)にまとまった家屋が見られる。これらは上庭場より移転してきた世帯だろうか。
 また同航空写真では上庭場から下庭場にかけて蓼川に沿った水田が見られるものの、1970年代の航空写真ではほとんど見られなくなっている。

 

≪上庭場≫

写真1 対岸より集落跡を望む

写真2 道路沿いの風景

写真3 同。建物群は対岸(深谷)のもの
≪下庭場≫

写真4 本蓼川バス停

写真5 屋敷跡付近?

写真6 同?

写真7 蓼川に架かる立川橋

写真8 集落跡の風景

写真9 集落跡を南端付近より望む

 

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