戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆石津(いしづ)鉱山



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「草津」(昭和27.8)を使用したものである

所在:嬬恋村今井(いまい)・草津町前口(まえぐち)
地形図:上野草津/草津
形態:川沿いから山中にかけて家屋や施設が多数集まる
離村の背景:産業の衰退
標高:約1,460〜1,600m
訪問:2013年11月

 

 大字今井の北部、赤(あか)川(吾妻(あがつま)川支流)上流部右岸側にある。ごく一部の施設が赤川を挟み草津町に所在する。
 以下は村誌より鉱山の概要。

 発見時期は不詳。露頭発見後は草津の霜田氏(旅館業)が鉱区を所有。のち東京の小林氏が買収。鉱区を拡張し一部探鉱を行ったが、鉱床は見つからず試掘鉱区の一部を残し他は放棄した。その後今井氏の所有となる。
 昭和7年7月、北海道硫黄株式会社が買収し小串鉱山石津坑として発足。昭和10年度から探鉱を開始。昭和13年に鉱床の一部を発見するとただちに施設の建設を開始し、昭和15年11月製錬施設完成。同年12月に初めて硫黄が生産された。
 昭和16年、石津鉱業所として独立。しかし太平洋戦争中に硫黄鉱業整備令が出され、再び小串鉱山の支山となる。
 その後次第に生産設備を拡充し、昭和22年9月16日、再び石津鉱業所として独立。
 昭和30年代半ば頃より鉱量の涸渇が懸念されてきたが、探鉱に努め昭和38年新たな鉱床(城山鉱床)を発見。昭和43年にはそれまでの主体であった米無鉱床の採掘は終了した。しかし城山鉱床もあまり開発が進まず、
昭和46年6月30日閉山。

 以下は当地にあった学校の沿革。

(小学校)
 昭和22.9.1  東小学校石津分校開校
 昭和27.10.3  新校舎落成式
 昭和29.2.1  独立。石津小学校となる
 昭和46.3  閉校

(中学校)
 昭和23  東中学校石津分校開校(小学校に併設)
 昭和27.10.3  新校舎落成式
 昭和29.2.1  独立。石津中学校となる
 昭和36.9.1  独立校舎落成
 昭和46.3.31  閉校

 以下は児童数・生徒数の変遷(赤字は最多)。

  昭和22 昭和23 昭和24 昭和25 昭和26 昭和27 昭和28 昭和29 昭和30 昭和31 昭和32 昭和33 昭和34 昭和35 昭和36 昭和37 昭和38 昭和39

昭和40

昭和41 昭和42 昭和43 昭和44

昭和45

児童数 8 29 30 38 41 47 55 64 74 79 95 116 119 124 109 101 102 90 89 88 79 61 41 21
生徒数   6 12 12 15 12 13 13 19 24 27 23 17 27 33 37 41 47 43 32 30 30 30  


 最近の地形図でも多数の建物が記されているが、現存するものは皆無。神社も既になく、台座が残るのみ。北側の居住区では僅かに建物の遺構が散見される。

 


写真1 平坦地(以下概ね南側より)

写真2 グラウンド?

写真3 敷地の登り口

写真4 同

写真5 施設跡

写真6 同

写真7 同

写真8 同

写真9 同

写真10 白根林道石津支線(草津町へ向かうもの)

写真11 赤川に架かる橋。嬬恋・草津の町村境界

写真12 施設跡(草津町)

写真13 池(地形図上での水域)

写真14 神社参道

写真15 神社社殿跡

写真16 南西部へ続く道

写真17 何かの跡(集落南西部にて)

写真18 何かの跡(同)

写真19 炭焼き窯?(同)

写真20 建物跡

写真21 同

写真22 施設跡

写真23 同

写真24 貯蔵設備?

写真25 何かの跡

写真26 横穴

写真27 鉄塔

写真28 何かの格納庫

写真29 本白根山の道標

写真30 施設跡?

写真31 遺構

写真32 水道設備

写真33 住宅跡

写真34 消火栓

写真35 住宅跡

写真36 遺構

写真37 住宅跡

写真38 遺構

写真39 住宅跡

写真40 遺構

写真41 遺構

写真42 住宅地の道

写真43 遺構

写真44 住宅地にて

写真45 住宅跡

写真46 上部の平坦地

写真47 貯水槽?

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ