◆川原湯(かわらゆ)
※ 明色部(暗色部は川原畑)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「草津」(昭和27.8)を加工し使用したものである
所在:長野原町川原湯
地形図:長野原/草津
形態:川沿いから斜面にかけて家屋が集まる
標高:下湯原―約530m 川原湯―約550〜600m 上湯原―約540m
訪問:2019年5月
町の北東部、吾妻(あがつま)川右岸側にある。
下湯原(しもゆばら)・川原湯温泉街・上湯原(かみゆばら)は、いずれも建設中の八ッ場(やんば)ダムの完成により完全に水没する(平成31年度〔令和元年度〕完成予定)。訪問時は完成間近であったため立ち入りはできなかったが、水没前の往時の集落跡地を望むことができた(家屋や施設類はすべて撤去)。
なお現在は下湯原・上湯原それぞれの山手に代替の住宅地が造成されており、一部の住民や温泉施設がこちらに移転。既に居住が始まっている。下湯原にあった川原湯温泉駅(JR吾妻線)は、上湯原の代替地に新たに建設されている(写真12)。また不動大橋の南詰には、不動堂が移転し再建している(写真13)(平成24年移転)。
「角川」によると、大字川原湯は近世の吾妻郡川原湯村。明治22年長野原町の大字となる。明治初期36戸161人(「郡村誌」)(※)、明治24年27戸180人、昭和19年55戸274人、同30年107戸545人、同40年148戸631人、同50年179戸626人。昭和21年国鉄長野県線(現・吾妻線)が開通し川原湯駅が開業。
また川原湯温泉は、歴史は古く建久4(1193)年源頼朝が巻狩りをしていた時に発見したという伝承があるという。王湯・笹の湯・虎湯・桃の湯(滝の湯)等があったがいずれも崖の中腹に湧出。吾妻渓谷が険しいため江戸期までは往来が不便であったが、明治期になってから川原畑出身の県議が私財を投じ、渓谷沿いの道を開鑿。明治・大正期には徒歩のほか人力車や馬車で訪れていたが、その後の道路整備や鉄道の開通で入浴客が著しく増加した。明治11年には旅館6軒、最近では18軒であった。
ダム建設の主な経緯については川原畑のページを参照。
※ 戸口が川原畑とまったく同じだが、本文に従った
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