◆川原畑(かわらはた)

※ 明色部(暗色部は川原湯)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「草津」(昭和27.8)を加工し使用したものである
所在:長野原町川原畑
地形図:長野原/草津
形態:川沿いから斜面にかけて家屋が集まる
標高:八ッ場―約510m 三平―約580m 川原畑―約530m 温井―約630m
訪問:2019年5月
町の北東部、吾妻(あがつま)川左岸側にある。
川に近い八ッ場(やんば)・三平(さんだいら)・川原畑本集落は、建設中の八ッ場ダムの完成により完全に水没する(平成31年度〔令和元年度〕完成予定)。訪問時は完成間近であったため立ち入りはできなかったが、八ッ場大橋から往時の集落跡地を望むことができた(家屋や施設類はすべて撤去)。温井(ぬくい)は水没を免れるが、工事関係車両が出入りしており未訪問。
以下は資料館の展示よりダム建設の主な沿革。
(昭和22.9) |
(カスリーン台風) |
(昭和24) |
(台風の被害を受け、利根川改修計画が改訂される) |
昭和27 |
改訂利根川改修計画の一環により、調査着手 |
昭和28 |
建設反対住民大会 |
昭和39 |
調査再開(吾妻川の水が強酸性であったため調査は中止されていたが、昭和38年に中和工場が設けられた) |
昭和42 |
実施計画調査に着手(11月)
反対総決起集会(12月) |
昭和44 |
ダム説明会実施 |
昭和45.4 |
建設事業に着手 |
昭和55.11.27 |
県は町と町議会に「生活再建」「生活再建の手引き」を提示 |
昭和61.7.10 |
八ッ場ダム建設に関する基本計画を作成 |
昭和62.12.18 |
町と関東地方建設局は、「八ッ場ダム建設に係る現地調査に関する協定書」を締結 |
平成2.12 |
建設省と県は、水没5地区の再建計画である地域居住計画を作成 |
平成4.7.14 |
「八ッ場ダム建設事業に係る基本協定書」を締結 |
平成13.6.14 |
「利根川水系八ッ場ダム建設事業に伴う補償基準」調印。これにより本格的な移転工事が始まる |
平成21.9.16 |
国土交通大臣、建設中止の方針を表明 |
平成23.12.22 |
意見聴取や再検討の末、事業継続を決定 |
平成26.8.20 |
本体建設工事の契約 |
平成27 |
掘削工事開始(1.22)
起工式(2.7) |
平成28.6.14 |
コンクリート打設開始 |
平成29.3.4 |
定礎式 |
(平成31年度) |
完成予定 |
また町立第一小学校のウェブサイトによると、当地には川原畑尋常小学校があったとのこと。以下はその沿革。
明治12.3 |
千代小学校川原支校設置 |
明治14.5 |
分離・開校(川原畑38番地) |
明治17.11.6 |
吾妻第八小学校川原分校となる |
明治19.4.1 |
川原尋常小学校となる |
明治20.3.1 |
川原畑尋常小学校と改称 |
明治22.8 |
校舎新築 |
明治23.4.1 |
川原畑簡易科小学校となる |
明治26.4.1 |
川原畑尋常小学校となる |
明治41 |
閉校(長野原尋常高等小学校第一分教場に併合) |
また「角川」によると、大字川原畑は中世の「河原畠」、近世の吾妻郡川原畑村。明治22年長野原町の大字となる。幕末頃29戸(「改革組合村高帳」)、明治初期36戸161人(「郡村誌」)(※)、明治24年35戸214人、昭和30年69戸315人、同40年63戸287人、同50年78戸299人。
※ 戸口が川原湯とまったく同じだが、本文に従った
現在は八ッ場大橋の北側に代替の住宅地が造成されており、一部の住民がこちらに移転。既に居住が始まっている。また墓地や神社、堂宇、石造物群も住宅地の山手に移転している。
神社(写真11)は諏訪(すわ)神社。解説によると、創建年は不詳だが長野県諏訪大社の分社であるとのこと。平成18年現在地に移転。
堂宇(写真12)は、解説によると江戸時代には観音堂・阿弥陀堂・毘沙門堂の3つからなっていたとのこと。現在は観音堂だけが残されている。平成20年現在地に移転。
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