戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆八塩田(やしおだ/ヤシューダ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「小林」(昭和22.6)を使用したものである

所在:只見町塩ノ岐(しおのまた)
地形図:城郭朝日山/小林
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約630m
訪問:2023年6月

 

 大字塩ノ岐の中部南寄り、塩ノ岐川(伊南(いな)川支流)左岸にある。
 昭和39年・同51年の航空写真では複数の建物が並んでいるが、後者ではすべての建物は小型のもので、人家ではないよう。
 建物があった一帯は開けており、建物の基礎のようなものを1箇所確認した。これは昭和39年の航空写真にある人家のような建物の跡と思われる。
 読みは町史のルビより。


◆追記

 2023年10月、閲覧者様より当地に関するメールをいただきました。以下はその情報の概要です。

・昭和期の建物は全て出作り小屋で、集落自体は江戸時代に消滅している
・駿河今川家滅亡の際、今川氏真について小田原北条家に寄った今川家臣の一部が、氏真の小田原辞去後も北条家に仕えるも、豊臣秀吉により北条家も滅亡、流浪の末、元和2(1616)年8月に当地に流れ着いたのが集落の興り
・最盛期13軒まで戸数を増やしたが、天明の大飢饉(1782-88)で大半が餓死し『新編会津風土記』編纂の文化年間には僅か3軒まで減少。続く天保の大飢饉(1833-39)により、天保14年、最後まで残った馬場家が長浜へ去り集落としてはここで消滅した
・戦後、食糧増産のため9軒が出作りでの耕作を開始したものの、これも次第に出稼ぎに乗り換える家が出はじめ、昭和46年時点で耕地は放棄され2軒のみが養蚕に従事していたが、それも翌年には止めてしまった
・江戸期の集落は、出作小屋群の北端部に当たる。草の少ない時期には「白雲山」と書かれた石碑、石段跡、西側の段丘に24基の墓石と4基の墳墓が見られた

 とのことです(南会津山の会報『いろりばた 43号』〔昭和48年〕からの出典)。
 なお「ヤシューダ」の地元読みも、今回の情報より追加しました。
 この場を借りてお礼申し上げます。

 


写真1 平坦地

写真2 塩ノ岐川と対岸の平坦地

写真3 建物群跡

写真4 屋敷跡

写真5 写真4の遺構

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ