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◆吉尾(よしお/ヨシュー)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「宮下」(昭和22.9)を使用したものである

所在:只見町布沢(ふざわ)
地形図:会津小林/小林
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:災害
標高:約620m
訪問:2023年6月

 

 大字布沢の北東部、布沢川(伊南(いな)川支流)沿いにある。
 資料『南会津・只見町過疎部落の民俗』の絵地図によると、「後沢」との合流部付近に5戸(すべて小林家)と小屋の建つ屋敷跡が1箇所、その他古い屋敷跡が3箇所(かじ屋敷・嘉吉屋敷・座頭屋敷)、そして学校(昭和44年3月閉校)が記されている。また隣の「大根おろし沢」との合流部付近に、古い屋敷跡が1箇所(等助屋敷)、峠付近に山の神・十二山神が記されている。水田を中心とする農業や、山菜の採取で暮らしていたよう。屋号として越後屋・小松屋・清水屋・小梅屋といったものがある。引用する『新編会津風土記』によると、布沢村の端郷で、当時3戸。
 町史によると、鎮守は大山祇神社とのこと。
 またHEYANEKO氏によると、当地にあった学校は明和(めいわ)小学校吉尾分校(昭和44年閉校)。資料『図説会津只見の歴史』によると、開校は昭和28年。同39年電気導入、同40年電話架設。

 現地には墓地と「吉尾集落跡」の標柱があるほか、顕著な痕跡は見られない。標柱によると、昭和44年8月の豪雨で移転したが、その後も夫婦が昭和50年代まで居住していたとのこと。
 屋敷跡はこの家(小林氏)と思われる1箇所を確認したが、先述の絵地図は事後に閲覧したため他の屋敷跡や学校跡は特定せず。鎮守であった大山祇神社は、只見町・昭和村境の吉尾峠に鎮座する(写真10)。
 なお集落から1q強ほど下流には木地挽の集落があり、『南会津〜』の絵地図には小椋家5戸の屋敷跡と山神社跡が記されている。また『図説〜』によると明治初期まで5戸の集落をなしていたが、移住先は不明とのこと。この付近には「吉尾綱ぎ 木地師集落跡」の標柱があるが、詳細な探索はせず対岸の屋敷跡の一つをを望んだのみ(写真3)。当地は鎌倉沢より水を引き暮らしていたという。
 当地を通る道は会津若松と只見を結ぶ「銀山街道」とのことで、有志によって整備が行われている。道中の所々にある解説の標柱も有志によるもの。

 見出しの読みは町史のルビより。「ヨシュー」の読みは、昭和村側からの登り口の案内看板に「よしゅうとうげ」の振り仮名があることと、『南会津〜』の「よしをというらしいが村人からはよしうと聞える」という記述より。

 


(写真1 只見側車道終点からの吉尾峠登り口)

(写真2 道中、道筋と川が重なる場所。越後から来た座頭がここで迷い、「座頭泣かせ」の名がある)

(写真3 道中の木地師集落の一部。対岸に屋敷跡が1箇所)

写真4 水田跡

写真5 墓地。右はそれを示す標柱

写真6 集落跡の標柱

写真7 集落跡。中央の高台や左の平坦地に宅地があった

写真8 高みからの眺め

写真9 陶片

写真10 吉尾峠の大山祇神社


写真11 吉尾峠(昭和村側より見る)

 

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