◆田子倉(たごくら)

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「小林」(昭和22.6)を使用したものである
所在:只見町田子倉
地形図:田子倉湖/小林
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:田子倉・下原―約420m 宮原―約420m? 只見沢―約440m? 白沢―約440m?(水面は約510m)
訪問:2023年6月
大字田子倉の北部、只見川沿いにある。現在は田子倉ダムの人造湖(田子倉湖)に水没。ここでは田子倉本集落のほか、枝村の白沢(しらさわ)・宮原(みやはら)・只見沢・下原(しもはら)についても触れる。
資料『会津田子倉の歴史』によると、移転直前で50戸290人。昭和31年12月11日に集落の解散式が行われ、昭和33年の降雪前に全戸が移転を完了したとのこと。
鎮守は若宮八幡神社で、勧請は文禄年間(1592-1596)とみられている。社殿は字上台にあったが、昭和33年田子倉ダムの湛水に先立ち字沢田に移築。また只見沢口に神社の外苑を設けた。御神体の遷座に際し、電源開発株式会社の希望に沿って水神を境内社として祀っている。
集落内に寺院はなく、古くから只見の長福寺が菩提寺で、全戸が檀家であった。
本村の墓地は2箇所。1箇所は字水上(すいのかみ)にあり、通称「上(かみ)の墓場」「水上の墓場」。もう1箇所は字下原にあり、「下(しも)の墓場」「下原の墓場」と呼ばれていた。このほかにも、白沢に前期・後期(区分については後述)それぞれの墓地があり、宮原・只見沢にも墓地があった。
薬師堂が字上台にあった。昭和33年ダム建設のため若宮八幡神社の上方に移転している。
本村の中央に地蔵堂があった。
当地には只見小学校田子倉分校があった。以下はその沿革。
明治期 |
冬季間の教育施設設置(時期不詳) |
明治37 |
校舎新築(字家前) |
昭和14 |
校舎新築移転(字上台) |
昭和17.4.1 |
田子倉分校となり、季節校から常設校となる |
昭和30.8.1 |
閉校 |
以下は同書より、地区別の特記。
・田子倉本村
本村発祥以来生活を営んできた家は、のべ57戸65世帯。ダム建設まで残った家の数は、皆川15・大塚4・渡部4・菊地・佐藤・滝沢各1の26戸。皆川・大塚・渡部各氏は旧来からの家系。菊地氏は旧小梁村から大正期に転入。佐藤氏は茨城県より疎開のため昭和20年来住、戦後もとどまったもの。滝沢氏は新潟県より田子倉鉱山勤務のため昭和19年転入、残務処理のためとどまり、その後も居住したもの。
なお旧来の家系に山内(やまのうち)家があったが、大正3年分家の死去により本村では断絶している。
・白沢
只見川と白沢の合流部付近。上の地形図では左下。
当地に関する文書でもっとも古いものは、寛文10(1670)年の「伊北之内田子倉村白沢新田改候」。これによると、寛文7(1667)年、大塚氏(仁右衛門・庄右衛門ら)が白沢開拓団を結成し新田開発に従事したとのこと。2戸6世帯で、屋敷を構えているものは仁右衛門・庄右衛門。他の4世帯はこの2戸の中に属していた。
2世帯が離脱したのち5戸に分立し定着していたが、雪が深く農作物が十分に実らないことに加え、年貢の増加もあり困窮、享保の後期に降雪による甚大な被害もあり、全戸(5戸17人)が享保19(1734)年に左越原(さんごえっぱら)(只見沢)に移転。しかしこれも地理的条件の悪さや大洪水に遭ったことから、元文5(1740)年に本村へと移転した(ここまで前期とする)。 享保19(1734)年全戸が転出した後は、明治に至るまで本村の人々によって出作りの焼畑として多少の開墾が行われていたとみられる。
明治の末期、只見の皆川源太夫妻の入植によって再び田畑が開墾され、前期に劣らない集落が再建された(これより後期とする)。これが発展を遂げたのは、開墾可能な原野が開けていたことのほかに、山菜・きのこ・獣・川魚といった天然資源が豊富であったことが挙げられる。これは本村でも同様だが、白沢はそれらがより間近にあり、恩恵は本村よりもはるかに大きかった。また、離村まで雪崩による災害は受けなかった。 昭和29年の残存世帯は以下のとおり。歴史の古いほうから、家系別に配列。番号は便宜上資料掲載のまま(1戸複数世帯のものは1戸に包括)。
番号 |
世帯主 |
転出先 |
備考 |
72 |
皆川 |
会津若松市 |
後期白沢開拓の始祖(源太氏) |
73 |
〃 |
〃 |
72の家系 |
74 |
〃 |
鏡石町 |
〃 |
75 |
〃 |
〃 |
74の家系 |
77 |
〃 |
会津若松市 |
72の家系 |
78 |
春日 |
町内只見 |
昭和15年鉱山職員として転入 |
・宮原 本村の対岸、只見川と白戸川の合流部付近。
農地としての最古の記録は、延宝期(1673-1681)のもの。開発の年代は不詳。この頃は只見川を舟で往復する出作りの畑であった。その後村請の新田開発が行われ、本村の農民が中心となって水田が開墾された。
ここに初めて村落を形成したのは、皆川氏の伝右衛門・大塚氏の作右衛門および喜三郎の3戸10人。作右衛門は元禄(1688-1704)初め頃、他2名は宝永4(1707)年頃より開発に従事している。
3戸はしばらく続いたが、1750年代に作右衛門家(3代目)が本村へ移転。伝右衛門家(3代目)は天明4(1784)年当主の死去により妻と娘が本村へ移転。喜三郎家は4代目が天明6(1786)年に本村へ移転。その後享和2(1802)年に3代目の屋敷跡に家を建てたが、文政11(1828)年の記録では無住となっている。
弘化4(1847)年、越後より勇蔵・徳七親子が入植。
大正2年には皆川氏が治兵衛の屋敷跡に家を建て開拓の拠点とした。続いて湯田氏が入植。大正4年には村上氏が経木工場を建て一時は繁盛していたが、数年で閉鎖。
昭和24年宮原橋が完成。その頃6戸7世帯となり、最盛期となる。
昭和29年の残存家屋は以下のとおり。歴史の古いほうから、家系別に配列。番号は便宜上資料掲載のまま(1戸複数世帯のものは1戸に包括)。
番号 |
世帯主 |
転出先 |
備考 |
81 |
皆川 |
矢吹町 |
|
83 |
〃 |
町内楢戸(ならと) |
|
84 |
山内 |
会津若松市 |
後期宮原開拓の始祖(勇蔵氏) |
85 |
〃 |
〃 |
84の家系 |
86 |
湯田 |
町内只見 |
旧朝日村より石伏に移転後、大正4年宮原に入植 |
87 |
〃 |
〃 |
86の家系 |
89 |
〃 |
〃 |
〃 |
・只見沢 只見川と支流の只見沢の合流部付近。上の地形図では中央やや左。
先述のとおり、享保19(1734)年に白沢から5戸が当地(左越原)に移転したが、元文5(1740)年に本村へと移転している。この時の各戸の屋敷跡は分かっていない。
大正の末から昭和の初めにかけて、矢沢氏・馬場氏の2戸が移住してきた。かつてこの辺りの字は「沼田」と称されていたが、明治以降は字「左越原」としている。 昭和29年の残存家屋は以下のとおり。歴史の古いほうから、家系別に配列。番号は便宜上資料掲載のまま(1戸複数世帯のものは1戸に包括)。
番号 |
世帯主 |
転出先 |
備考 |
91 |
矢沢 |
町内福井(ふくい)(旧朝日村) |
石伏より転入(大正14年付) |
93 |
馬場 |
金山町 |
昭和4年転入 |
・下原
本村の北東。旧版地形図には建物の記載が見られないが、「田子倉」の表記の右側の緩傾斜地に当たる。
水利に乏しく、古来から人家は建てられなかった。よって水田は開けず、耕地はすべて畑であった。
昭和13年、国鉄線敷設のために当地に2戸の官舎が建った。用水は井戸。鉄道敷設のための測量が進んでいたが、昭和16年太平洋戦争勃発となり、鉄道工事は中止。官舎は空家となって放置された。
終戦後田子倉ダムの工事が始まると、官舎を利用したり、新しく家を建てる者もあって、集落が成立した。 昭和29年の残存家屋は以下のとおり。歴史の古いほうから、家系別に配列。番号は便宜上資料掲載のまま(1戸複数世帯のものは1戸に包括)。
番号 |
世帯主 |
転出先 |
備考 |
95 |
目黒 |
町内楢戸 |
木材店の事務職員として転入 |
96 |
皆川 |
町内黒谷 |
|
97 |
大塚 |
会津若松市 |
|
34 |
皆川 |
〃 |
戸籍は本村 |
98 |
〃 |
町内只見 |
|
48 |
〃 |
会津若松市 |
戸籍は本村 |
99 |
山岸 |
町内只見 |
田子倉鉱山の事務職員として転入 |
100 |
渡部 |
郡山市 |
田子倉鉱山の事務長として転入 |
101 |
目黒 |
町内只見 |
疎開で転入 |
102 |
水本 |
〃 |
〃 |
また町史によると、ダム建設の主な沿革は以下のとおり。
昭和22.6 |
日本発送電株式会社により、只見川電源開発説明会開催 |
昭和22・昭和23 |
日本発送電東北支店より、只見川開発計画の概要と計画書が発表される |
昭和24.6 |
ダム建設地点の地質調査開始。同年田子倉で移住反対対策協議会結成 |
昭和26.11 |
県がダム建設予定地を視察。のち対策懇談会を開く |
昭和27.11 |
水没関係者がダム対策研究会結成。この頃よりダム建設を受け入れる住民が増加 |
昭和28.3 |
知事の命を受け、南会津地方事務所長来訪。関係者と協議(本格的な補償交渉の始まり) |
昭和28.4 |
ダム対策研究会メンバーが、他のダムの状況を視察(5日)。知事ら県関係者と会談(8日)。視察に反発した反対派9戸が脱退し、以後の対立を深めることとなる |
昭和28.8.5 |
ダム建設地点告示 |
昭和28.8.13 |
県知事訪問。補償説明会を開く |
昭和28,9.7 |
電源開発(以下電発)と田子倉およびダム直下の石伏・宮淵(みやぶち)の代表者との間で、第1回現地折衝。補償の大綱が示された |
昭和28.11 |
石伏・宮淵が補償について調印。両地区はダムの建設拠点となり、暮れから年明けにかけ機器や資材が運び込まれ、倉庫や飯場が多く建てられた(この頃田子倉住民は受け入れ41戸、反対9戸。早期解決を望む声が高まる) |
昭和29 |
賛成派住民の代表が、知事に解決の斡旋を申し入れ(3月)
知事による斡旋で、電発・県当局・田子倉関係者による交渉が行われる。賛成派のうち32戸と補償について仮調印(4月)
反対派のうち4戸が補償について仮調印(6月2戸・9月2戸)
賛成派全戸(45戸)と電源開発との間で、補償について仮契約の調印(9月)
電発と反対派5戸が会談。交渉は決裂(10月3日)
電発からの申請を受け、県は反対者に対し土地収用法を適用。土地の収用が裁決される(11月19日)
賛成派全戸と正式調印(11月29日)
ダム建設着工式(11月30日)
|
昭和34.3.23 |
第一次湛水(資料『会津田子倉の歴史』より) |
昭和36.11 |
竣工 |
なお若宮八幡神社遷座に際し、集落内にあった山神社も一緒に移されたが、水天宮やその他石祠はそのまま放置され水没している。薬師堂と地蔵堂の本尊は一時期皆川氏が預かっていたが、その後八幡神社に納められた。
訪問に際し、移転した若宮八幡神社から本集落と宮原方面を望んだのみ。他の枝村の状況は不明だが、集落は全域が深く水没しており、痕跡は見られないものと思われる。
神社境内には水没地から移された小祠や「田子倉の碑」、皆川雅舟氏(田子倉出身の書作家で、国・県の文化功労者)の胸像がある。
なお事後に知ったところでは、国道沿いの只見沢左岸側にJR只見線の田子倉駅があったという(平成25年廃止)。
以下は「田子倉の碑」の碑文。
この湖の底に私たちのふるさと田子倉がある。総面積一万六千ヘクタールの広大な土地に、五十世帯・二百九十人が住んでいたが、昭和三十四年四月六日、田子倉ダムの湛水によって、宅地・水田・畑の全面積と、原野・山林を含めておよそ一千ヘクタールが水没した。
田子倉の発祥については明らかでないが、矢の根石が発見されており、中世には武家領となって鎌倉幕府の支配下にはいったものと思われる。江戸時代には口留番所が置かれて会越国界の守りとされた。
私たちの祖先は若宮八幡を勧請して村の鎮守神とし、堰を上げて田畑を起し、道路を開いて交易の便をはかり、狩猟や漁労を行いながら部落共同体を形成してきた。幸にも土地は肥えており、林産物や山菜にも恵まれ、地下資源の採掘されたこともあり、人々の生活は豊かであった。明治初年の地租改正、同二十二年の町村制施行、その後の林野統一を経て広大な民有林を確保した。こうした先人の英知は後に田子倉施業森林組合を組織し、林業の近代的経営の道を開き、昭和二年六十里峠に幅三メートルの林道を開通させた。これが国道二五二号線の前身である。また地域内河川に村内唯一の内水面漁業権を獲得して、マス・イワナ等の自然増殖をはかり、部落の発展に大きく結びついた。
第二次世界大戦後、荒廃した日本経済復興のため只見川電源開発は国策として決定され、田子倉ダムの建設はその中心としてとりあげられた。私たちはこの国家的要請にしたがい、全戸移転のやむなきにいたり、それぞれの地に第二の故郷を求めて四散した。
あれから十五周年、私たちは田子倉の由来と先人の業績が歳月とともに流れ去るのを惜しみ、みんなの手でこの碑を建てて子孫に伝え、互の心を結ぷきずなとする。
昭和四十八年十一月三日 田子倉移転者一同
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