戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆石伏(いしぶし)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「小林」(昭和22.6)を使用したものである

所在:只見町石伏
地形図:田子倉湖/小林
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約390m(水面は約390m)
訪問:2023年6月

 

 大字石伏の北部、只見川右岸にある。ここでは大字石伏のうち、現住の宮淵(みやぶち)を除いた石伏の本集落について触れる。

 資料『只見町石伏集落学術総合調査報告書』によると、只見ダムの建設に伴い当時の43戸全戸が移転したとのこと(対岸の宮淵は25戸のうち9戸が移転)。昭和35年56人319人、同40年43戸222人、同45年47戸224人、同50年44戸176人、同55年43戸165人(宮淵を除いた数字)。
 また昭和55年の43戸のうち、農家戸数40。専業2、第1種兼業7、第2種兼業31。水田農家が多い。
 以下は集落にあった世帯(昭和55年国勢調査。資料掲載順)。

    屋号(俗称) 本家・分家 備考
1 目黒 たちばなや 16の分家  
2 矢沢   29の分家  
3   30の分家  
4   14の分家  
5 渡部      
6 目黒   16の分家  
7 矢沢   20の本家  
8   19の分家  
9   22の分家  
10 小沼   35の分家  
11    
12 矢沢 松川屋 14の分家  
13 目黒 (隠居) 34の分家  
14 矢沢 松川屋 18の分家  
15   20の分家  
16 目黒   34の分家  
17 矢沢   18の分家  
18 松川屋 本家 元名主
19   18の分家  
20 松川屋 30の分家  
21 目黒   23の分家  
22 矢沢   本家  
23 目黒 (新し屋) 34の分家  
24   13の分家  
25 山内   36の分家  
26      
27 目黒   32の分家  
28 矢沢   29の分家  
29 丸山屋    

30

松川屋 18の分家  
31 長沢      
32 目黒 (うしろ) 34の分家  
33 (背戸) 34の分家  
34 (おめえ) 本家 元名主
35 小沼      
36 川口      
37 横田      
38      
39 堀金 (下)    
40 下の新宅 39の分家  
41 本名   42の分家  
42      
43 目黒      


 近年の生業は水田による耕作が主体であるが、石伏の水田は田子倉ダムができる直前の整備事業によってできたもので、それ以前は原野であった。古くからの水田は集落と山に挟まれた狭いもので、灌漑も発達せず、ほとんどが湿田であった。
 昭和30年代までは焼畑も行われていた。焼畑では、蕎麦・粟を栽培。屋敷周りの畑では自給用の蔬菜等を作っている程度であった。
 禁忌作物として麦・胡麻があるが、これは氏神の八幡様が麦のからで滑って転び、胡麻の茎で目を突いて片目を失明したことに由来する。
 ゼンマイ採りも盛んに行われ、春の大きな収入源であった。採取は5月中旬より1箇月ほど。ほかワラビやウド・フキなども収穫。秋はキノコ採りも行われたが、これは自家用のもの。
 炭焼きが盛んに行われていたのは昭和20年頃まで。
 養蚕は終戦前に行われなくなったが、それ以前は全戸で盛んに行われていた。村内では人手が足りなかったので、新潟方面から六十里越を通り労働者が多くやってきた。

 当地には石伏・宮淵を通学区とする只見小学校石伏分校があった。以下はその沿革(資料『会津田子倉の歴史』も参照にしている)。

 明治7.5  只見小学校石伏分校設置
 明治8.8  廃止
 明治12.12  石伏出張校設置
 明治18.5  校舎落成。季節校(冬季のみ)から常設校となる
 明治20.4  石伏簡易小学校となる
   (※1)
 明治42.11.3  字上居廻に新校舎落成
 昭和17.4

 石伏分校となる(※2)

 昭和40.3

 閉校

※1 この間『只見町石伏集落〜』では明治21年4月「分教場となる」、明治23年5月「石伏分教室をおく」とあるが、『会津田子倉〜』では明治21年4月「分教室と再び改名された」とあり、内容に齟齬がある
※2 『会津田子倉〜』より。『只見町石伏集落〜』には記述がない

 閉校後、校地は石伏公民館として転用された。しかし校舎はその構造上公民館としては使いづらかったため、昭和49年新築されている。

 明治13年只見に郵便局ができると、石伏にも只見局から配達員が回ってきた。昭和20年田子倉に郵便局ができたが、石伏の人は只見郵便局を利用する人が多かった。昭和29年田子倉ダム建設のため田子倉郵便局が宮淵に移ってからは、これを利用することが多くなった。
 電気は昭和の初め頃に引かれ、宮淵よりも早かった(宮淵は戦時中)。黒谷(伊南川の支流)の上流に発電機を置いて、そこから電気を引いたもの。戦前には東北電力の電気が入ってくるようになったが、田子倉ダム建設までは電力が不十分で、暗く、停電も多かった。
 電話が引かれたのは、昭和22年8月に田子倉に交換局が開かれてから。大字内では宮淵に3箇所設置された後、4番目に石伏分校に置かれた。
 大正時代に吊り橋が架かるまでは、只見川を渡し舟で渡っていた。上・中・下の3箇所で、それぞれ現在の万代橋のすぐ下・公民館の西・集落北部。
 神社(若宮八幡神社)は、建久2(1191)年勧請。鎌倉の鶴岡八幡宮に祀られている祭神の分霊という。古くは石伏村ほか9箇村の鎮守で、大正10年には
田子倉村も加わった。しかし田子倉・石伏は水没離村、他の8箇村も明治末期までに氏子を離れた。

 移転52戸(宮淵含む)のうち、集団移転は33戸。うち湯川村11、只見町8、白河市5、西郷村4。ほか会津若松市10、北会津村【現・会津若松市】5、河東町【現・会津若松市】2、郡山市1、神奈川県1、東京都1、静岡県1、埼玉県1。
 水没した公共施設に、石伏公民館・石伏プール、消防ポンプ舎などがある。
 若宮八幡神社は字後山の中腹に鎮座していたが、ダムサイト右岸に移転し、改築して氏子一同が管理を行うこととなった。
 墓地跡は、薬師堂を中心に無縁仏や道祖神、祠などを祀り石伏の碑を建立して公園化されている。

 町史によると、若宮八幡神社の遷座は昭和60年11月。
 湯川村に移転した11戸は、移転先の新しい集落名を「石伏」としている。集会所には若宮八幡神社の旗を納めているほか、建物の床柱には解体した社殿の古材を用いているという。


 1970年代の航空写真と現在の地形図を照合すると、かつての集落の3分の2ほどは湖畔の陸地と重なっている。しかしこの陸地も造成により家屋の痕跡は見られない。
 先述のとおり墓地跡は公園として整備されたため、往時からの薬師堂や集められた石造物、「石伏由来の碑」が見られる。碑によると、ダム竣工は昭和59年とのこと。
 神社跡には石段が残り、社殿跡もそれらしい雰囲気が感じられる。なお境内にはヤマザクラの古木、さらに山に入ると町指定天然記念物のクリの巨木があり、これらを訪問する際にこの石段と社殿跡を通ることになる。

 


写真1 ダム堰堤

写真2 集落跡を望む(下流側より)

写真3 同(上流側・万代橋より)

写真4 墓地跡にて。薬師堂と石仏。薬師堂には「子安地蔵 藥師如来 弘法大師」とある

写真5 同。石仏群

写真6 同。石伏由来の碑

写真7 旧神社石段

写真8 神社社殿跡

写真9 ヤマザクラ

写真10 クリ

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ