地震発生当時は、小学校には82人の児童と13人の教職員がいた(14:46)。教職員らは児童を保護者に引き渡さず、1.6km離れた大平山に一斉に避難した(14:54)。その後、津波は校舎の1階部分の天井まで達する(15:37)。大平山から双葉町鴻草(こうのくさ)の国道6号へ到達し(16:30)、偶然通りかかった運送業者の大型トラックが児童や教職員、住民など約100人を荷台に乗せて役場本庁舎へと避難(16:40)。請戸小では誰一人犠牲者を出すことはなかった。
震災および原発事故による災害の教訓を後世の人々に継承するため、平成30年8月浪江町震災遺構検討委員会を設置。3回の討議を経て遺構の保存・活用が提言された。
なお請戸中学校は、昭和22年に字谷地畑にて開校。昭和49年4月東中学校請戸分室となる。
以下は生徒数の推移。
年度 |
昭和22 |
昭和23 |
昭和24 |
昭和25 |
昭和26 |
昭和27 |
昭和28 |
昭和29 |
昭和30 |
昭和31 |
昭和32 |
昭和33 |
昭和34 |
昭和35 |
昭和36 |
昭和37 |
昭和38 |
昭和39 |
昭和40 |
昭和41 |
昭和42 |
昭和43 |
昭和44 |
生徒数 |
183 |
216 |
219 |
230 |
227 |
228 |
213 |
223 |
245 |
231 |
227 |
166 |
163 |
172 |
164 |
244 |
211 |
205 |
198 |
196 |
188 |
170 |
150 |
※1 中学校沿革と生徒数については、町の公式サイトより請戸中学校の「中学校沿革誌」を参照にした。昭和49年以降の動向は未確認
請戸漁港では津波によりほとんどの漁船が流失し、操業はすべて停止した(浜通りでは873隻の漁船が被災し、111人の漁業者が犠牲となっている)。震災前の請戸地区の漁協正組合員は156人、漁船は97隻。
町では小型船による沿岸漁業が盛んであった。福島県沖で穫れる魚は「常磐もの」と呼ばれる良質のものであり、その中でも「請戸もの」は関東の市場や高級料亭などに高値で取り引きされていた。
震災直後は原発事故により放射性物質の被曝の可能性があったため、県漁連は全面的に操業を自粛。
県は震災翌年から相馬双葉漁港を拠点に「試験操業」を開始。県漁連では、国の基準値を超える放射性物質を含んだ魚介類が出回らないように、さらに厳しい自主基準値を設定した。
平成25年11月12日より、請戸漁港で災害復旧工事開始が開始。原発事故による旧警戒区域の漁港では初となる。
平成29年2月には岸壁工事がほぼ完了。6年ぶりに請戸漁港に26隻の漁船が戻り、3月からコウナゴ漁が再開した。しかし荷捌き場がなく、相馬原釜市場に陸送しなければならなかったため、町は請戸漁港の水産業共同利用施設・荷捌き場・取水施設などの設計を開始。水産加工団地の整備計画作成にも着手した。
令和元年10月25日、「請戸漁港水産業共同利用施設」が完成。荷捌き施設・貯氷冷凍庫施設・海水取水ポンプ施設・上架施設が利用できるようになった。またこれと併行し、「請戸地区水産加工団地」の造成が平成30年6月より翌年6月まで行われた。用地面積38,000平方メートル。
平成30年2月18日、くさ野神社(※2)にて300年以上続く伝統行事である「安波祭(あんばまつり)」(町指定無形民俗文化財)が開催され、請戸の神楽と田植踊りが披露された。平成25年以降仮設住宅などでも行われていたが、町内での開催は震災後初となる。
※2 「くさ」はくさかんむりに召。「苕」
町史で引用する『奥相志』(安政4年〜明治4年にかけて編纂)よると、人家のある字別の戸数は雷12、大師堂4、川原29、芳崎中島12、本町36、東迎13、谷地畑7、小谷地2、北久保7、南久保3、新町15。寺院には大平寺・海蔵寺・伝正院・多門院・胎蔵寺・帰命院等があった。
大平寺…字大師堂。山号七景山、院号照明院。真言宗。往時は大平山上にあったが、のち移転した
海蔵寺…字本町。山号金竜山、院号金鋳院。文政年間(1818-1831)に大平寺に併合
伝正院…字新町。山号東光山
多門院…字新町。天保年間(1830-1844)廃絶
胎蔵寺…字川原。山号請戸山、院号寿命院
帰命院…延享(1744-1748)の記録に見られるが、今は廃絶
資料『ふるさと請戸』によると、震災時406戸1,302人。津波が原因による犠牲者は95人、行方不明者24人。
地区内には請戸小学校・浪江町児童館・浪江町公民館請戸分館・請戸駐在所・請戸郵便局・請戸集会所・消防屯所・請戸漁業協同組合・請戸漁港新市場・くさ野神社・南岳院・薬師堂・熊野神社・権現様(御壇)・請戸共同墓地といった施設や寺社等があった。
なお駐在所は明治20年に設置。郵便局は明治34年4月開局。
「角川」によると、大字請戸は近世の標葉郡請戸村。明治22年請戸村(のち浪江町)の大字となる。天明3(1783)年182戸、嘉永元(1848)年135戸、明治3年111戸、同20年198戸1,139人、昭和50年373戸1,638人。
請戸川南部には水田が広がり、また海では沿岸漁業が行われる半農半漁の地域であるとのこと。
現在宅地群の跡地は多くが更地やマツの植林地となっており、往時の面影はほとんど見られない。
震災遺構である旧請戸小学校(写真1)は、住宅密集地からやや離れた大字の南東部。公開時間外であったため内部の見学はできなかったが、外見からも分かる1階部分などから、津波の猛威を窺い知ることができる。
くさ野神社は社殿が流失しているものの境内に新しい土台が築造されておりており、近い将来に再建されることが窺える(写真6・7)(※3)。
かつて共同墓地があった土地には「先人の丘」が築かれ、敷地には地内にあった石仏や石碑・石塔などが集められた一角がある(写真10・11)。
以下はその敷地内にある「請戸史碑」の碑文。
青い海、白い砂浜、広い空、そこから
湧き出る潮風、水平線から昇る大きい
真赤な太陽…請戸の美しい風景です。
平成二三年三月一一日午後二時四六分、三陸沖を震源とする震度六強の地震が発生。その五一分後に最大一五・五メートルの大津波が襲来。全戸が流失し、一一九名の尊い命が奪われた。翌十二日、東京電力福島第一原子力発電所は電源喪失により爆発。四〇六世帯の住民(一三〇二人)は、津波被災者の捜索や救助は困難になり、県内外への避難を余儀なくされた。その三年後に、災害危険区域・移転促進区域に指定され、帰る土地を失った。
請戸はかつて「受戸」「浮渡」とも記され、人や物の受け渡しの場所であったと言う。
江戸時代には請戸湊は、相馬中村藩の年貢米や鉄や瀬戸物などの物資を輸送し賑わっていた。しかし、明治三一年、浪江に常磐線が開通し、請戸の海運業は衰えたが、地元漁師の生業は盛んであった。
平成三〇年一月二日、震災後初の出初式が行われ、令和元年港には荷さばき場も開設された。翌年には、水平線から昇る太陽が見える大平山に、住宅団地が完成した。苦難を乗り越え、新しい請戸の曙(あけぼの)である。
ここに、新生請戸の再興と離散した住民の健康・安全を願い、請戸の歴史を後世に伝えるために碑を建立する。
令和四年三月吉日
建立者 大字請戸区
なおここから西に1q強離れた高台には、平成27年3月に整備された町営大平山霊園がある。先人の丘のある旧墓地からは、多くの人がこちらに墓を移している。
以下は園内にある慰霊碑の碑文。
平成二十三(西暦二〇一一)年三月十一日午後二時四十六分、福島・宮城・岩手を中心に最大震度七の地震が発生した。この地震により家屋は倒壊し、道路は寸断された。その約四十分後に浪江町沿岸に津波の第一波が到達した。第二波が襲来した後、さらに高さ十五mを超す大津波が町を襲った。住民はこれまで大津波被災の記憶はなく、避難が遅れ大津波に驚愕し、請戸・中浜・両竹・南棚塩の集落はすべてのみ込まれた。
翌十二日には東京電力福島第一原子力発電所の事故により、国から避難指示が発令されたため、住民は避難を余儀なくされ、捜索や救助を断念せざるをえなかった。この地震と津波により、住民百八十二名の尊い命が失われた。私達は、災害は再び必ずやってくることを忘れてはならない。
ここは太古の昔から人が住み、青い海と白い砂浜を眺望できる所である。この地に、犠牲者の御霊を慰めるとともに、先人が愛した豊穣の大地と海を慈しみ、浪江町の復興を願い、この碑を建立する。
平成二十九年三月十一日 建立者 浪江町
なお字別の犠牲者数は、雨垂2名、雷15名、御壇ノ西2名、角畑19名、川原12名、北久保14名、小谷地1名、左島塚1名、新町3名、大師堂11名、中島4名、長田坊1名、東向2名、古川2名、南久保3名、持平3名、本町
14名、谷地畑3名、芳崎7名。
※3 福島民報および福島民友新聞によると、令和6年2月完成予定とのこと