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◆中浜(なかはま)



※ 明色部(凡その範囲であり、必ずしも正確に表しているものではない。暗色部は大字両竹および双葉町中浜)
※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「磐城富岡」(昭和21.1)を使用したものである

所在:浪江町中浜
地形図:磐城双葉/磐城富岡
形態:海沿いに家屋が集まる
離村の背景:災害
標高:数m
訪問:2023年5月

 

 町の南東部にある。
 
平成23(2011)年3月11日の東日本大震災により被災。町内沿岸部にあった棚塩(南棚塩)・請戸両竹とともに壊滅的な被害が生じた。災害危険区域に指定され、住宅の再建が不可能となっている。

 資料『浪江町震災・復興記録誌』によると、11日14時50分に沿岸地区の棚塩・請戸・中浜・両竹住民に避難勧告が出され、沿岸部の住民の多くは津波避難場所である大平山・棚塩霊園などに避難した。
 町による調査では、請戸漁港の倉庫や請戸小学校の体育館に残る痕跡から津波の浸水高はおよそ15.5mであった。

 なお4月22日、浪江町は原子力災害対策特別措置法に基づき東側(福島第一原子力発電所から半径20km圏内)が立入禁止の「警戒区域」に、町の西側(半径20km圏外)が「計画的避難区域」に指定されている。これにより請戸・棚塩(南棚塩)・中浜・両竹は警戒区域に該当することとなった。
 のち平成25年に警戒区域・避難指示区域等の見直しが行われ、通行許可証があれば立ち入ることができる「居住制限区域」と「避難指示解除準備区域」、そして立入制限のある「帰還困難区域」の3
区域に再編された(浪江町は4月1日より)。これにより棚塩・請戸・中浜・両竹は避難指示解除準備区域となる。
 平成29年3月31日、避難指示解除準備区域と居住制限区域の避難指示が解除され、町民の帰還が始まった。

 資料『ふるさと請戸』によると、震災時36戸190人(※)。津波が原因による犠牲者は13人、行方不明者1人。
 地区内には中浜集会所・消防屯所・白籏熊野権現といった施設があった。
 なお昭和35年4月1日に大字中浜の一部が双葉町に編入されている。

※ 浪江町中浜・双葉町中浜の合計か

 「角川」によると、昭和50年33戸155人。農業地域であった。


 現在宅地群の跡地は多くがマツの植林地となっており、往時の面影はほとんど見られない。両竹地内の道路沿いには「中浜地区大震災祈念碑」と白籏熊野大権現社の碑(ただし「白旗」の表記)がある(写真2)。なお熊野大権現社のかつての所在地は、中浜地内の海沿い。
 以下は中浜地区大震災祈念碑の碑文。


 平成二十三年三月十一日午後二時四十六分、震度六強の巨大地震の発生により、高さ十五メートルを超える津波の襲来で全ての家屋が流失するとともに地域も壊滅し、二十余名の尊い命が奪われた。
 翌十二日には原発事故により、国からの避難指示が発令され、県内外への避難を強いられた。
 当地域は、昭和二十八年の町村合併促進法により浪江町に合併となるまでは請戸村に属しており、昭和三十三年に中野の全部および両竹の一部が、昭和三十五年に中浜の南部が双葉町に編入となり浪江町中浜と双葉町中浜(現在の浜野)に分離し今日に至っている。
 地震・津波・原発事故の複合災害はこの地で築かれた人々の生活と生業・コミュニケーションを残酷にも奪ってしまった。地域は災害危険区域に指定されたことから五十世帯全戸は住居を構えることが出来なくなり、住民は避難先から戻ることが叶わず、それぞれが慣れない地での新たな生活を余儀なくされた。

 ここに離散した住民のふるさとへの想いと複合災害の記憶を後世に伝えるため、祈念碑を建立する。

 令和五年三月 吉日


 町営大平山霊園内にある慰霊碑によると、字別の犠牲者数は、長沼3名、西原8名、南原3名

 


写真1 浪江・双葉町境より集落跡を望む(道より左は両竹


写真2 中浜地区大震災祈念碑(左)と白籏熊野大権現社の碑(右)(両竹地内)

 

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