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◆高屋敷(たかやしき)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「檜枝岐」(昭和22.11)を使用したものである

所在:檜枝岐村字高屋敷(大字なし)
地形図:檜枝岐/檜枝岐
形態:川沿いの平坦地に家屋が集まる
標高:約850m
訪問:2023年6月

 

 村の東部、伊南(いな)川(只見(ただみ)川支流)右岸側にある。

 資料『檜枝岐村の民俗』によると、季節的に移住し農耕を行う出作り耕作の地であったとのこと。
 本村から番屋組・下田組の人々が出作り耕作を行っていた。昭和10年6戸、同25年6戸、同40年頃6戸、同45年データなし(小屋のみの数であり、耕作をやめている場合も含まれる)。
 居住は概ね5〜7月と8〜10月。5月の愛宕神社の祭礼が終わると、村の人々は出作地に向かった。盆の期間を本村で過ごし、8月の祭礼が終わると再び出作地へ向かう。そして10月の収穫が終わると本村に帰る。このほか、神楽が来る6月頃に一時的に本村に戻ることもあった。
 盛んに栽培されたものは、常食であった蕎麦・粟・稗。なお稗は食べるまでに手間がかかるため、作付けは減少傾向であった。米は寒冷な自然環境により栽培できず、現在も水稲耕作は行われていない。芋(サトイモ)は環境的なものもあるが、伝承により胡麻とともに禁忌作物であった(※)。馬鈴薯が導入されると、イモ類としては盛んに栽培されるようになった。

 資料『檜枝岐の暮らしと地名』によると、大まかに上(うわ)段・下(した)段に分かれ、下段に橘・平野・平野・平野・平野・星各氏の6戸の出作小屋があったという。上段には畑がたくさんあったが、出作小屋の所有者は不詳。同書および村史によると、古い時代に橘某氏が屋敷を構えていたが、舘岩村川衣に移っていったという。

 集落の南部は国道沿い。最近の地形図で記されている建物のうち、小屋2棟は現存。ごく最近までほか2箇所の建物もあったようだが、これは更地になっている。
 枝道の先にある北部は荒蕪地あるいは森林なっており、往時の痕跡はほとんど見られない。

※ 村の鎮守神が芋がらで滑って転び、胡麻のからで目を突いて片目を失明したことに由来する

 


写真1 建物跡

写真2 小屋

写真3 小屋

写真4 写真3付近の平坦地(畑跡?)

写真5 集落北部の風景

写真6 小屋跡

写真7 平坦地(畑跡?)

写真8 開けた平坦地

 

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