◆月山沢(つきやまざわ)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「左澤」(昭和21.11)を使用したものである
所在:西川町月山沢(つきやまざわ)
地形図:本道寺/左沢
形態:川沿いから斜面にかけて家屋が集まる 離村の背景:ダム建設
標高:約340〜400m(水面は約400m)
訪問:2017年11月
大字月山沢の南部、寒河江(さがえ)川左岸側の斜面にある。現在は寒河江ダムの人造湖(月山(がっさん)湖)に水没(ダム建設の経緯については、砂子関のページを参照)。
町史によると、寒河江ダムの建設に伴い昭和51年に全戸が転出したとのこと。離村時45戸。うち1戸は水没を免れたが、周辺集落から孤立するため転居している。月山沢小学校および同中学校、公民館・保育所・診療所などといった施設があったよう。
資料『西川町史年表』によると、小学校は明治18年11月20日に本道寺学校の月山沢分校として発足。中学校は昭和22年開校。いずれもダムの建設に伴い昭和51年3月31日閉校。
集落はほぼ全域が水没しているが、現在の国道112号に沿って商業施設や除雪ステーションなどの建物が新設されている。また先の水没を免れた1戸とは異なると思われるが、管理家屋が1軒。さらに月山大橋の北詰付近には月山神社が祀られ、境内には多数の石造物が置かれている(写真9-13)。
以下は集落の由来をも記した「供養塔由来」の碑の全文。
供養塔由来
私達の古里 月山沢は 北に霊峰月山 西に石見堂岳を仰ぎ 南に豪壮な山岳美を誇る朝日連峰を望見し
東に断崖と渓谷のある四方山に囲まれ 四季それぞれ 自然美の景観を誇る山里であった しかも月山を源とする 四ッ谷川 大越川と朝日連峰を源とし
東折して村山盆地を潤す水清く水量豊な寒河江川の合流する段丘上にあり 半年雪に埋れているが 三川の恵みを受け 南に開けた地味豊な土地にして
生活の安定をささえ
平和な里であった
祖先はこの地こそ子孫繁栄の住家であると定め
八百年余の古より開拓した
人情豊に平和であれとのヘ訓は長い歴史の中で培われて来た このヘ訓こそ 子孫の私達にとって何物にも優る誇りであった 山の幸川の幸等の豊富な資源は
人々の心を豊に 人情を厚くその上信仰心をも篤くした
経済的に自給自足の誇りを持って子孫に継承されて来た古里は 明治以来 本道寺村にさらに西川町へと変遷
村山と庄内を結ぶ 六十里越街道の 二度に及ぶ改修工事と 舗装工事の施行 水ヶ瀞発電所の建設 月山沢堰堤の構築等により漸次近代文明の波に洗われ
更に月山を背景とした 観光の
里として一躍時代の脚光を浴び
潤の兆を見るに至った
然るに思もよらない寒河江ダム建設という未曽有の出来事に逢着した 私達はこれに対し個々の感情や利害を捨て 大同団結して 全面協力に踏み切り
円満妥結という輝やかしい記録を残した
開拓以来 子孫の人々の心に培われて来た
平和の二字こそ古里月山沢の象徴としてふさわしい姿に納まるべく 是に於て円型の供養塔を建立し 永遠に朽ちることのない 祖先の高徳を頌え
霊位を安置すると共に 昭和五十年を最後に歴史よりなくなった 平和の里月山沢の名を
萬世に止めんとするものである
昭和五十四年八月 月山沢部落
また月山神社の石碑には、以下のような神社の由来とこれまでの経緯が記されている。
当社は霊峰月山を間近に仰ぐこの地に、月山大権現を勧請しお月山様を称えて九百有余年、月山沢の守護神として村人の尊崇を集め、むらの中心となって歩んで来た。
時は流れ、昭和五十一年時代の要請により寒河江ダムが建設されることゝなり、部落四四戸の全部が水没移転を余儀なくされ、氏子全員の転住という神社存亡の一大危機に直面し、その対応に苦渋した。我々は、氏子への変らぬ神の恵みと月山沢永久不滅を信じ神社護持を決めた。此度遠藤太嘉喜氏の発意により役員会の議を経て社殿保護のため、その修復と鞘堂を建立した。これを後世に伝えるために茲にその経緯を誌す。
昭和五十五年十月吉日
|