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◆外山(そでやま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「六郷」(昭和21.11)を使用したものである

所在:横手市山内大松川(さんないおおまつかわ)
地形図:左草/六郷
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設(非水没地)
標高:約240m(赤倉は約280m)
訪問:2018年5月

 

 大字大松川の中部、松川(横手川二次支流)沿いにある。ここでは旧版地形図で「赤倉」と記された地区も含めた。
 村史によると、大松川ダム建設のため昭和60年から61年にかけて移転が行われたとのこと。当時32戸117人。移転先は村内26戸で、うち25戸が土渕(つちぶち)の軽井沢(かるいざわ)
地区に造成された新興住宅地。村外6戸で、うち横手市が4戸。
 昭和46年ダム建設の建設計画が持ち上がり(当初は
田代地区
のみ対象)、同46年には区域が拡大され外山までが移転の対象となった。昭和49年には田代福万赤水の3地区が松川ダム対策協議会を結成。間もなく外山でも松川ダム上流地区対策協議会が結成された。昭和60年6月、大松川ダム補償基準協定調印。同年10月より移転開始。
 また以下は、当地にあった松川小学校外山分校の主な沿革(開設時期は明記なし)。

 昭和11.10.19  分教場となる
 昭和16.4.1  山内国民学校外山分教場となる
 昭和22.5.31(※)  山内北小学校外山分校となる(山内北小学校が山内小学校より独立)
 昭和29.4.1  松川小学校外山分校となる(本校の改称)
 昭和48.6  閉校

※ 本文では昭和25年5月31日となっているが、松川小学校の沿革では独立および「外山・福万に分校を設置」が昭和22年5月31日であることや、福万分校の沿革でも山内北小学校の所属となった時期が同様であったため、誤りと判断した

 また山内中学校外山分校もあったが、昭和42年に閉校(ただし山内中学校のウェブサイトでは昭和43年。また開校時期は昭和25年とあるが、同年の小学校に関する記述は誤りの可能性が高く、中学校の開校時期も昭和22年である可能性がある)。

 現地はダム建設により離村したがダム湖からは離れており、現在でもいくらかの水田が耕作されている。往時は多数の家屋があったものの、その跡地が分かるものは少ない。現地で会った方の話では、学校跡は県道終点付近の橋のそばとのこと。
 また「赤倉」では、川沿いに水田跡が広く見られたほか、何かの設備の跡が見られた、当地に継続的な居住者があったかは不明だが、1970年代の航空写真では人家のようなものが見られる。
 なお「赤倉」は、資料においてダム建設に伴い離村した地区としては挙げられておらず、外山と一括して扱われていたと思われる。

 


(写真1 ダム堰堤)

写真2 道標。「外山」と見える

写真3 学校跡

写真4 水田

写真5 屋敷跡

写真6 集落風景

写真7 同

写真8 同

写真9 同

写真10 道と水田跡

写真11 集落風景

写真12 農耕器具

写真13 集落風景

写真14 池

写真15 集落風景

写真16 建物跡

写真17 集落風景

写真18 屋敷跡?

写真19 水田(以下「赤倉」)

写真20 農地

写真21 橋

写真22 建物跡(屋敷跡?)

写真23 何かの設備

 

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