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◆渡瀬(わたらせ)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「桑折」(昭和22.5)を使用したものである

所在:七ヶ宿町(大字なし)
地形図:白石南部/桑折
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約250m(水面は約290m)
訪問:2023年5月

 

 町の南東部、白石(しろいし)川沿いにある。現在は七ヶ宿ダムの人造湖(七ヶ宿湖)に水没。

 町史によると、出羽・陸奥両国の重要な連絡路であった七ヶ宿街道に置かれた宿場町であったとのこと。
 往古は人家も僅かであったが、近世初期に街道が開かれ街道沿いに「七ヶ宿」が設けられた。そのひとつが渡瀬宿で、風土記に「七右衛門儀慶長十三年六月肝入検断
(※1)仰渡され候」とあり、この頃(1608年)には宿場として成立していたよう。
 慶長(1596-1615)末年頃には七ヶ宿街道が江戸‐出羽間の通行によく利用されていたが、まだ当時は笹谷
(ささや)(※2)を経由する交通路(笹谷街道)のほうが多く利用されていたとみられる。明暦2(1656)年金山
(かなやま)峠が改修され人馬の往来が自由になると、七ヶ宿街道は出羽諸大名の参覲交代路として安定し、七ヶ宿谷の宿場町も形を整えるに至る。
 当時は田畑が少なく、渡瀬の人々は主として往還の荷物駄賃稼ぎと旅籠による収入で生計を立てていた。明治5年の伝馬所・助郷の廃止後は、新たに各宿駅に設立した陸運会社による輸送となったが、実態はそれほど変わらなかった。なお渡瀬では江戸時代に肝煎検断
(※1)および本陣
(※3)を務めた古山家がこれに当たり、同家は「会社」の屋号で後年まで親しまれた。
 明治19年の小原新道の開通や同20年の東北本線の開通、さらに同32年の奥羽線開通により、宿場は衰退する。
 農業だけでは生計を維持することはできず、生業の転換を迫られることとなる。明治末期より製炭が次第に増加し、終戦頃までは盛んに行われた。また養蚕も明治末期から昭和初期まで盛んに行われた。宿場の衰微以降は、製炭・養蚕が生業の中心となり、田畑の耕作でそれらを補っていた。
 明治4年・同16年に火災に遭い、こと16年の大火は旧宿駅の景観を失うものであった。旧藩時代の遺構は焼失したものの集落は復興し、依然50戸前後の規模を保って大正期に至っている。

※1 肝煎(肝入)は村の代表者。検断は宿場の責任者。1村1宿場の場合、両方を兼ねることが多い
※2 現在の川崎町今宿および山形市関沢間の県境にある峠
※3 参覲交代の大名が宿泊・休憩をした宿

 昭和9年57世帯、同25年67世帯、同30年代63戸。移転直前の昭和55年は57世帯。
 別の記述では、昭和8年403人、同11年337人、同25年67戸337人、同30年321人、同35年289人、同40年53戸238人、同45年50戸196人(「七ヶ宿基本調査報告」「村勢要覧1952」「昭和45年調査報告」)。
 またダム建設に関する記述では、50戸196人(「七ヶ宿だより」〔昭和46.6.1〕)。うち農家戸数34戸。
 さらに別の記述では、昭和55年48戸。内訳は古山13・浅野6・大山3・吉田3・佐藤3・村上3・若松3・半沢2・村井2、石垣・小川・木村・小室・宍戸・高橋・中村・八島・吉川・渡辺各1(町役場調べ)。
 鎮守は熊野神社で、宿場の中央にあった。弘治元(1555)年7月に紀州熊野山大権現を勧請したものと伝わるが、「安永風土記書出」には慶長年間の勧請と記されている。旧称は熊野大権現で、明治2年熊野神社と改称。同5年5月村社に列格。ダム建設に伴い、集落内の石碑類とともに瀬見原に移転した。
 また集落の西端にはかつて養源寺(山号大木山、院号歌唱院、宗派真言宗)があり、現在でいう角田市にあった安養寺の末寺であった。開山の詳細は不明。天明2(1782)年に庫裏が大破し無住となり、明治6年11月に白石市の清光寺に合併した。
 当地にあった学校は、関小学校渡瀬分校。開設時期は不詳だが、明治初期とみられる(別の記述では明治45年5月8日設置とある)。また、校舎は無住となっていた養源寺を充てていたと推測される。当時の学区は渡瀬・
追見。以下は記述から分かる範囲での沿革。

 明治初期  渡瀬小学校開校
 明治11.6  養源寺境内に校舎建築着手
 明治16  大火により校舎焼失
 明治18  校舎再建
 明治22  渡瀬分教場と称する
 明治45  校舎新築移転

 昭和42.3.31

 閉校

 以下は児童数の推移。

年度 昭和26 昭和27 昭和28 昭和29 昭和30 昭和31 昭和32 昭和33 昭和34 昭和35 昭和36 昭和37 昭和38 昭和39 昭和40 昭和41

児童数

104 76 71 45 83 84 82 88 98 97 98 98 105 95 88 83

 閉校後の校舎は縫製会社の工場として使用された。
 なお旧版地形図では
に学校の記号があり、同書でいうここでの「渡瀬」は、旧来のように原も含めた範囲である可能性がある。

 明治7年渡瀬郵便局開局。大正14年8月渡瀬発電所竣工。村内各戸に点灯。昭和33年1月31日、渡瀬簡易水道竣工。
 主な石造物には、馬頭観音・大神宮・金華山・念仏塔・南無阿弥陀仏・庚申塔・山神があった。

 町史および資料『ふるさと七ヶ宿』等によると、ダム建設までの主な流れは以下のとおり。

 昭和45.11.4  建設省から町に対し、七ヶ宿ダムの予備調査を通告
 昭和45.11.26  渡瀬・追見の3地区で説明会を開き、調査立ち入り開始
 昭和46.2.10  地権者により「渡瀬ダム対策協議会」結成
 昭和46.3.1  町に「七ヶ宿ダム基本対策審議会」および「ダム対策室」設置
 昭和48  七ヶ宿ダム実施計画調査開始
 昭和48.4.16  七ヶ宿ダム調査事務所(後の七ヶ宿ダム工事事務所)が白石市内に設置
 昭和48.11.18  地元住民に対し、七ヶ宿ダムに関する説明会を開催
 昭和49.9.9  七ヶ宿ダム生活再建相談所開設
 昭和51.12.15  「七ヶ宿ダムの建設関する基本計画」告示
 昭和52.5.12  工事事務所と渡瀬ダム対策協議会が用地調査覚書を交わす(6月28日用地調査開始)
 昭和52.12.30  水没移転予定者のため、字長下に住宅団地を町で造成(瀬見原団地)
 昭和54.6.29  東北地方建設局から渡瀬ダム対策協議会に対し、損失補償基準を提示
 昭和55.5.2  渡瀬ダム対策協議会は工事事務所に対し、補償要求対案を提出。本格的補償交渉開始
 昭和55.7.14  補償基準に関し大筋で合意
 昭和55.8.27  「七ヶ宿ダム建設に伴う一般補償協定」調印
 昭和55.11.4  水没地権者との個別補償契約開始
 昭和56.8.24  本体第一期工事発注
 昭和56.12.24  瀬見原団地に町営住宅完成
 昭和58.8.19  付替の国道113号開通式
 昭和58.11.1  起工式(※以下、国土交通省東北地方整備局七ヶ宿ダム管理所のウェブサイトより)
 昭和63.9.14  堤体盛立完了
 平成元.10.17  試験湛水開始
 平成3.10.22  竣工式


 資料『ふるさと七ヶ宿』によると、移転者は古山13・浅野6・村上4・大山3・佐藤3・村井3・吉田3・若松3・半沢2・高橋2、会田・小川・菊地・木村・小室・宍戸・武田・中村・八島・吉川・渡部が各1(計53戸)。
 転出先は、白石市18・大河原町9・町内8・仙台市7・柴田町5、桑折町・蔵王町・名取市・神奈川県川崎市・埼玉県毛呂山町・同八潮市が各1。 


 集落は完全に水没しており、その痕跡を窺うことはできない。なお国道沿いには街道の渡瀬宿があったことを示す看板と、当地に関する事柄を書き連ねた「わたらせの記」の石碑(昭和58年設置)がある(写真2)。

 


写真1 ダム堰堤

写真2 「わたらせの記」(右)と渡瀬宿の看板(左)

写真3 集落跡を望む(水面下)

写真4 往時の風景(
追見の説明板より)

 

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