◆追見(おっけん)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「關」(昭和22.2)を使用したものである
所在:七ヶ宿町(大字なし)
地形図:関/関
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約290m(水面は約290m)
訪問:2023年5月
町の南東部、白石川沿いにある。現在は七ヶ宿ダムの人造湖(七ヶ宿湖)に水没。
町史によると、当地は七ヶ宿街道の警固のため、角田領主石川家の足軽が分駐し開発した集落であるとのこと(街道については渡瀬のページを参照)。古山家・渡部家が草分け。明治以降は足軽身分は解消し、農民生活に転向している。
近世を通して戸数の増減がほとんどなかったが、明治以降は大きく変動。昭和9年51戸、同12年54戸、同25年63戸、同55年50戸(51世帯)(※1)。
昭和8年356人、同11年415人、同25年63戸415人、同30年414人、同35年371人、同40年62戸335人、同45年61戸275人(「七ヶ宿基本調査報告」「村勢要覧1952」「昭和45年調査報告」)(※1)。
またダムに関する記述では、ダム建設に関する記述では、61戸275人(「七ヶ宿だより」〔昭和46.6.1〕)。うち農家戸数59戸(※1)。
さらに別の記述では、昭和55年64戸。内訳は渡部9・安藤8・永倉5・小島4・小室3・斎藤3・高橋3・半沢3・渡辺3・後藤2・二瓶2・根元2・日野2・古山2、小笠原・大山・大窪・今野・志田・杉原・根本・羽田・林・本多・松山・村上・森谷が各1。
鎮守は若木(おさなぎ)神社。
当地にあった学校は、関小学校追見分校。明治33年頃設置(※2)。昭和42年3月31日閉校。以下は児童数の推移。
年度 |
昭和26 |
昭和27 |
昭和28 |
昭和29 |
昭和30 |
昭和31 |
昭和32 |
昭和33 |
昭和34 |
昭和35 |
昭和36 |
昭和37 |
昭和38 |
昭和39 |
昭和40 |
昭和41 |
児童数 |
32 |
29 |
26 |
30 |
30 |
38 |
43 |
37 |
40 |
46 |
43 |
42 |
37 |
28 |
30 |
33 |
なお閉校後の校舎は公民館として使用された。
主な石造物に、庚申塔・念仏供養塔・青面金剛・二十三夜塔・十八夜塔・湯殿山・勢至菩薩・牛頭天王がある
※1 以上の戸口は、矢立(非水没)を含めた統計である可能性がある
※2 ただし巻末の年表では「明治25年7月1日七ヶ宿尋常小学校追見分教場を開設」とあり、また別の記述では「昭和22年4月1日設置」とある
資料『ふるさと七ヶ宿』によると、移転者は安藤9・渡部6・小島3・小室3・斎藤3・半沢3・後藤2・高橋2・永倉2・二瓶2・根元2・日野2・古山2・渡部2、青木・大窪・大山・小笠原・小嶌・小関・今野・杉原・林・本多・松山・村上・森谷が各1(計56戸)。
転出先は、白石市26・町内9・柴田町7・大河原町6・仙台市3・福島市2、岩沼市・蔵王町・福島県国見町が各1。
集落跡は湖面とほぼ同じ標高であるため、大半は水没を免れ七ヶ宿公園の敷地となっている。ただし痕跡は皆無。公園内には渡瀬・原・追見の移転者の氏名を記した「ふるさとの碑」や、集落に関する説明板が置かれている。
なお国道沿いには移転者と思われる現住の家屋や畑、飲食店といった建物が見られる。
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