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◆大仙人(おおせんにん?)茶屋
(仙人峠茶屋)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「遠野」(昭和22.1)を使用したものである

所在:遠野市上郷町細越(かみごうちょうほそごえ)/釜石市甲子町(かっしちょう)
地形図:陸中大橋/遠野
形態:峠の一軒家
標高:約880m
訪問:2019年11月

 

 遠野市と釜石市の境界、仙人(せんにん)峠にある茶屋。遠野と釜石を結ぶ釜石街道の途上にあり、峠は街道の最難所であった(標高887m)。
 資料『釜石市文化財調査報告書』によると、開設は大正初期であるよう。大正元年には仙人峠越えの茶屋として沓掛に雲南茶屋が開設されたが、大仙人・中仙人の茶屋も岩手軽便鉄道開通(大正3年)までに開設されたと見られる。
 初期の主人は那波哲二氏であったが、経営は妻に委ね自身は仙人堂の管理と鉄索の油差しを生業としていた。昭和初期、白岩(しらいわ)辰治氏(※1)の経営となる。
 仙人峠を往来する人馬にとって飲み水は必要なものであったが、その道筋には水源がなかった。そのため沓掛から樽桶に水を詰め、馬の両側に1個ずつ付けて運んだ。茶屋の利用客には茶碗1杯を有料で提供。水が切れた時には麓から鉄索によって運び、途中の中継所で降ろして補給した。
 児童の通学は、営林署管轄区の関係から上郷側であった。沓掛の出張授業所(大正4.5〜昭和12.3)が廃止されてからは、軽便鉄道で上郷小学校(※2)に通学。
 仙人堂(仙人神社)については『三閉伊路程記』(文化文政頃)や『遠野物語』(明治43年)にも記述があり、木造の小さな堂宇であった。昭和初期、瓦葺きの大きなものに建て替え。御神体(お仙人様)は、昭和37年足ヶ瀬(あしがせ)に移された。また境内の石仏や石碑群も、現在は足ヶ瀬仙人堂に移されている。
 昭和25年10月10日に国鉄釜石線が全通し、県道であった仙人峠の街道は廃された。このため茶屋は昭和25年10月9日まで営業したのち、翌日に下山。無住となった。さらに昭和34年9月に仙人有料道路(現在は無料)が開通してからは、仙人峠を訪れる人はほとんどいなくなってしまった。
 街道が廃止された後、沓掛から峠までは釜石鉱業所による探礦のために車道が開かれ、現在も残っている。

※1 読みは聞き取りより。細越へ移転とのこと
※2 同校の細越分校と思われる

 訪問は沓掛より。現地のすぐ手前までは先述の車道跡が通じており、迷うこともなく歩きやすい。時おり瀬戸物のかけらや飲料の壜などが落ちているが、茶屋やかつて往来した人々の遺物だろうか。
 峠には「仙人堂跡」の解説板が立てられ、手水鉢や小祠が残されている。仙人堂は既にない。急遽訪問することになったため事前調査をしておらず、茶屋跡の特定には至らなかった。ただし事後の聞き取りでは沓掛側から見て道の右に茶屋、左に仙人堂があったとのことなので、おそらくは稜線から遠野側の少し低くなった場所にあったと思われる(先の資料でも、「右側(南側)は二メートルぐらい低くなったところに三十坪ほどの平坦地があって、雑草が一面に生えている。ここが仙人峠茶屋のあったところで…」との記述がある)。
 以下は解説板より。

 仙人堂跡

仙人堂には仙人の像がおかれ人々から崇拝されていました。御堂の壁には「何月何日の夜、この山道にて若き女の髪を垂れたるに逢えり。こちら見てにこりと笑ひたり」、「此処にて猿に悪戯をせられたり。」などの記述があったと遠野物語に記されています。右腕の無い木造の御神体は、現在上郷町細越にある通称「御銭堂」に移されています。

 


写真1 峠

写真2 「仙人堂跡」の説明板(実際の跡地とは異なる)

写真3 南に延びる尾根(右の低くなった場所が茶屋跡か)

写真4 皿(写真3付近にて)

写真5 水瓶(写真3付近にて)

写真6 手水鉢

写真7 仙人堂の瓦?

写真8 仙人堂の礎石?

写真9 仙人堂の棟瓦?

写真10 小祠

(写真11 瀬戸物片。「山…」と見える〔
沓掛‐峠間にて〕)

(写真12 壜。「日本麥酒鑛泉株式會社」とある。茶屋で販売されていたというサイダーの壜か〔
沓掛‐峠間にて〕)

 

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