◆新納屋(しんなや)
※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「平沼」(昭和41.9)を使用したものである
所在:六ヶ所村鷹架(たかほこ) 地形図:尾駮/平沼
形態:平坦地に家屋が集まる
標高:約20m
訪問:2016年5月
大字鷹架の東部にある。鷹架の本集落から南におよそ1qほど。
以下は村史より、当地の概要。
明治6年、小泉金助と田中丑蔵が三戸郡豊崎村【現・八戸市】より移住し、地曳網によるイワシ漁業を営む集団漁場の集落として開かれた。鷹架村の枝村
大正末期から昭和初期にかけて不漁・漁撈の機械化が進み急激にイワシの獲量が減少したため、収入源を出稼ぎに求めるようになった
耕地はなかったが、昭和6年12月、工藤栄一と沼田正が田畑を開墾し、工藤農場を開設。急速に耕地の開墾・拡張が進行
昭和44年「新全国総合開発計画」が発表されると、不動産ブローカーによる村内の土地開発が激化。昭和46年に開発構想が発表されると、村内は賛成派・反対派に二分されていった。昭和47年には「むつ小川原開発第一次計画および住民対策大綱」が決定。開発公社による農地の買収が積極的に行われるようになる。昭和50年に第二次基本計画が決定され、新納屋の一部と鷹架の人々が千歳平地区に移転し、その後残っていた新納屋の人々は新城平に移転した
以下は戸口の推移
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昭和35 |
昭和40 |
昭和45 |
昭和50 |
昭和55 |
昭和60 |
平成2 |
戸数 |
88 |
78 |
89 |
88 |
79 |
10 |
6 |
人口 |
469 |
457 |
408 |
402 |
369 |
48 |
16 |
現在も1世帯の居住者が住み続け、この世帯の家屋など数棟の建物が残されている。神社(泉田稲荷神社)は現在でも管理され、その姿をとどめている。以下は神社敷地内にある「新納屋開村百年之碑」の全文。
新納屋部落は明治六年三月十日小泉金助 田中丑蔵両氏の当地移住に依つて太平洋岸の砂丘地に地曳網による鰯漁業を営む集団網場に始まり 以来沿岸漁業を以て生計を立ててあつたが大正末期より昭和の初めにかけて機械化漁業の圧迫によつて急激に漁獲量を減じ生計の窮乏は年と共に加わり漁夫出稼等で辛うじて命数を保つた程の惨めな状態で有つた 耕地を有する者当時三十余戸の内二割に満なかつた 由来一望漠々として人の姿を見ず不毛の名を残すのみの山野にこの地を相して開拓に心を潜めた工藤栄一 沼田正の両氏は元平沼地区御料地の原野と米内山家の権利譲渡を受け昭和六年十二月工藤農場を創設し二期に亘り工事を進め昭和十二年八月遂に水田百三十三町歩畑三十町歩の開墾を完成するに至る この間百難千苦雲霧よりも多く其の因厄は実に言語に絶せしも不撓不屈この難事業を克服し又部落を挙げて努力を傾け人は和を供して萬頃の美田現出し不毛の汚名を消すことが出来た その後も部落挙げて耕地拡張に全力を注ぎ現経営総面積二百五十八町歩内水田百四十八町歩畑百十町歩之を耕作なす者八十六戸を算するに至る 又先住者の遺名を永遠に伝えると共に部落の氏神として昭和十八年七月二十七日清祥の気漲る社日を選び泉田稲荷神社と稱号し改築し落成の式典を挙ぐる 茲に相図り開村百年を記念し其の遺業と芳徳の概略を碑に刻み泉田稲荷神社の境内の丘に建て之を後世に伝う
昭和四十七年十月十日 新納屋部落一同 建之
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