◆上弥栄(かみいやさか)
※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「平沼」(昭和41.9)を使用したものである
所在:六ヶ所村尾駮(おぶち)字上弥栄
地形図:戸鎖/平沼
形態:平坦地に家屋が集まる
標高:約60m
訪問:2016年5月
大字尾駮の北西部にある。現在のむつ小川原国家石油備蓄基地付近。
以下は村史より、当地の概要。
昭和22年5月、戦後の開拓地として入植開始。入植者の大半が満洲および樺太からの引揚者であった。集落の名称は満洲弥栄開拓団の「弥栄」と上北郡の「上」をとったもの
入植は第三次に亘って行われた。昭和22年5月33戸、同24年34戸、同26年12戸。計79戸362人
入植者はまず雑木林を伐採し、畑を開墾して菜種・ジャガイモをの栽培を始めた。昭和28年・29年の大凶作を機に、酪農を導入。昭和34年ピークを迎えるが、乳価基準の変化や指導の問題などによりやがて減少
のち昭和34年、農林省により甘味資源の増産が策定されたことにより、甜菜の栽培農家が増加。しかし労力に見合う収入がないことや地力の消耗が大きいこともあり、昭和38年をピークに減少。さらに昭和42年六戸町の製糖工場が閉鎖されたため、栽培は打ち切りとなった
離村直前で、79戸のうち53戸が残存
昭和44年「新全国総合開発計画」が発表されると、不動産ブローカーによる村内の土地開発が激化。昭和46年に開発構想が発表されると、村内は賛成派・反対派に二分されていった。昭和47年には「むつ小川原開発第一次計画および住民対策大綱」が決定。開発公社による農地の買収が積極的に行われるようになると、同48年末には上弥栄・弥栄平のほぼ全戸がこれに応じた
以下は戸口の推移
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昭和35(※1) |
昭和40 |
昭和45 |
昭和50 |
昭和55(※2) |
昭和60 |
平成2 |
戸数 |
85(6) |
73 |
53 |
2 |
195 |
9 |
― |
人口 |
413(20) |
306 |
204 |
5 |
196 |
9 |
― |
※1 ( )の中は第四上弥栄
※2 工事関係者による増加?
以下は当地にあった上弥栄小学校の沿革。
昭和24.4 |
戸鎖小学校弥栄平分校上弥栄分教室開設。上弥栄開拓事務所を教室に充てる |
昭和25.11.3 |
弥栄平小学校上弥栄分校となる |
昭和26.4.1 |
独立。上弥栄小学校となる |
昭和37 |
弥栄平小学校を統合 |
昭和50.3.24 |
閉校 |
訪問時は悪天候であったため、幹線道路沿いを一瞥したのみ。周囲の林や荒地の中に複数あると思われる屋敷跡等は未確認。唯一確認できた往時の名残は、備蓄基地西端の柵のそばにある「開拓」の碑(写真1)。「入植二十周年記念 昭和四十一年四月十五日」とあり、以下の各氏の名が刻まれている。
佐藤・沼山・高橋・山下・工藤・山田・佐々木・鈴木・沼山・佐々木・金子・江口・林・工藤・土屋・古川・古川・一戸・柏崎・大杉・早坂・山内・小田切・有川・渡部・鈴木・高田・沼尾・一戸・松田・佐藤・庄司・井上・阿部・我孫子・戸田・佐藤・後藤・村形・佐藤・早坂・清野・遠藤・川合・大木・伊勢谷・松田・松田・佐藤・黒滝・工藤・松田・沼嵐・二階堂・上野・富田
以下は碑文。
この碑は、現在地より東方3Kmの地に所在していたが、むつ小川原開発計画石油国家備蓄基地々内となったためむつ小川原開発計画株式会社のご協力により移転されたものである。
昭和56年10月
なお聞き取りの際のアクセントは、「カ」と「ヤ」の2箇所。
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