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◆脇方(わきかた)



※ 暗色部左上は字松川(まつかわ)、右上は字中岳
※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「倶知安」(昭和44.12)を使用したものである

在:京極町脇方
地形図:京極/倶知安
形態:川沿いに家屋や施設が集まる
離村の背景:産業の衰退

標高:約350m(中心部)
訪問:2014年5

 

 町の中部、ワッカタサップ川およびその支流沿いにある
 町史によると、行政字としてはかつての字カシプニと呼ばれた場所の一部。昭和16年4月1日、字名改正により錦・東花・大富・脇方・中岳の5字に分割された(字ペーペナイの一部も含まれている)。地名の由来は、「カシプニの一部で古くより呼び馴らされし懐しき名をそのまま存置せしむ」。なお本来は駅名のほうが初出で、その由来は路線が通る地域の名称「ワッカタサップ」の頭4文字に「脇方」の字を当てたもの
 
当地の開拓の始まりは、明治期に入植した福島団体。以降、舟山団体・信夫団体・和歌山団体が地内に入植していった(※1)。脇方鉱山の開鉱後は、鉱山従業員の居住地として変貌。

※1 なお「角川」では明治41年の福島県以降、宮城県から28戸、山形県から25戸、山梨県から53戸が入植とある

 以下、各団体および鉱山について概要を記す。

・福島団体
 明治41年4月入植。団長は信夫郡吉井田村【現・福島市】の佐藤氏で、翌年までに29戸全戸が入地した。位置は字南西のワッカタサップ川左岸側。凶作・地力の減退や脇方鉱山の開発により、昭和14、5年頃には就農者は数戸に過ぎない状況であった

・舟山団体
 明治41年5月入植。信夫郡吉井田村の団長舟山氏をはじめ、同村の出身者12戸。位置は後の脇方駅付近。後年は駅や官舎・鉱山事務所・社宅・学校用地などとして買収され、当時の団員は離散した。

・信夫団体
 明治44年8月入植。団長唯山氏をはじめ、信夫郡吉井田村および土湯村【現・福島市】出身者の27戸。位置は字の東側。

・和歌山団体
 大正3年6月入植。団長は和歌山県人の北風氏。位置は字中北部の狭い地域。東側気候や土壌が営農に適せず、大正12年には全戸が離農した。

・脇方鉱山
 明治31年、京極農場開墾指導者であった藤村氏が、ワッカタサップ川流域において褐鉄鉱を発見。のち鉱山士の浅倉氏、東京の橋本氏の所有を経て、大正5年三井鉱山株式会社の所有となり本格的に開鉱。大正7年北海道製鉄に譲渡。のち日本製鋼所に併合、同社の所有となり、日本製鋼所倶知安鉱業所となる(※2)。大正10年に一時休山し、同14年操業再開。閉山は昭和44年。鉱石輸送のため、大正9年には脇方線(京極‐脇方間)及び脇方駅が開業。

※2 最終的には日鉄鉱業の所有となっているようだが、町史にその経緯は記載されていない。大正14年の再開時か

 なお脇方小学校は、明治44年4月1日に東倶知安第一尋常高等小学校付属奥ワッカタサップ特別教授所として開設、昭和45年10月30日廃校。脇方中学校は、昭和22年4月開校(小学校に併置)、昭和45年3月31日廃校。
 地図画像の神社のうち、中心部のものは鎮守の天照皇大神宮、東側のものは山神社と思われる。いずれも離村後は京極八幡神社に合祀。


 現地では旧脇方駅付近を中心に、僅かな遺構が確認できる程度。建物の類は、松川との境界付近にある道道沿いの家屋と、駅付近の町営廃棄物最終処分場といったもの。学校跡には門柱と碑が残り、校舎の基礎も確認できる。駅跡は整地されており、痕跡は確認できず。駅前付近の碑(写真21)には「日鐵鑛業株式会社 北海道鑛業所/倶知安鑛山記念碑」とあり、往時の盛況を物語る。

 


写真1 建物跡

写真2 鉄道の橋脚

写真3 学校門柱(南側)

写真4 碑。後方は処分場

写真5 学校門柱(北側)

写真6 校舎と校庭の間にある階段

写真7 校舎跡

写真8 同。柱状のものは煙突

写真9 支流(白井川)沿いの街路

写真10 写真9沿い建物跡

写真11 同。何かの遺構

写真12 支流の橋

写真13 支流右岸住宅跡

写真14 同

写真15 同

写真16 同

写真17 鉄道の橋梁跡

写真18 最近の地形図の「畑」付近の建物跡

写真19 駅前付近?

写真20 施設跡

写真21 碑と何かの倉庫

写真22 施設跡

写真23 鉱山施設

写真24 ワッカタサップ川と対岸の平地

写真25 東側の「鉱山」の記号付近

 

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