◆甲斐(かい)
※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「倶知安」(大正8.9)を使用したものである
所在:京極町甲斐 地形図:倶知安/倶知安 京極/倶知安
異表記:上山梨(古い通称)
形態:谷沿いから山中にかけて家屋が散在する
標高:約280m〜
訪問:2014年5月
町の西部、ガル川とその支流流域、およびヌップリ寒別(かんべつ)川左岸側にある。
町史および「角川」によると、行政字としてはかつて字ペーペナイと呼ばれた場所の一部。昭和16年4月1日、字名改正により松川・春日・甲斐・北岡の4字に分割された。地名の由来は、「山梨県の移住したる人々の拓きたる地なれば永久に之を記念とす」。
当地の開拓の始まりは、明治期に入植した山梨団体のひとつ「上山梨団体」であるよう。山梨団体は明治40年8月、県下に起こった大水害により家や農地を失った人々が集団移住を行ったもので、うち上山梨団体はペーペナイ(のちの甲斐)に116、ヌプリカンベツ(のちの倶知安町山梨)に39戸が入植した。ソバ・イナキビ・ササゲ類・ナタネなどを耕作し、また養蚕を行う。なお上山梨団体のほか、同時期に中山梨団体(現在の京極町松川(まつかわ))、下山梨団体(現在の豊浦町山梨)が形成されている(※)。明治末年に宮城県から14戸が北部の高地に入植したが、これは数年で全戸が離村。昭和10年頃から農業経営が不振となり離村者が増え、同35年の世帯数は14。
ペーペナイおよびヌプリカンベツはいずれも入植当初は倶知安村(のちの倶知安町)の所属であったが、明治43年4月5日、倶知安村から東倶知安村(のちの京極町)が分立した際に同村の所属となっている
なお地内には上山梨尋常小学校があったようで、明治43年9月に上山梨教育所として開設、大正9年3月21日に廃止との記述がある。
※ 町史に記載はないが、明治41年5月赤井川村にも「山梨団体」が入植している(現・赤井川村山梨)
耕作に訪れていたかつての住民の関係者の話では、現在甲斐地内にある耕地はこの1箇所のみで、かつてこの近くに家があったとのこと(地図画像で「甲斐」とある場所)。ジャガイモを栽培。学校があったとのことで、先述の上山梨尋常小学校のことだろう。古い地図にある神社については分からないという。
地内には他にも「畑」の記号があるが、いずれも耕作は行われていない(最北のものは積雪のため未訪問)。なお町史にある移住記念碑(大正6年、移住10周年を記念して作られたもの)は見つからなかった。倶知安の山梨側から「神社」の探索のために入地したが、道は笹藪に覆われ到達せず。ただし農地跡と思われる段になった平地が見られた(写真5・6)。
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