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◆ニニウ(ににう)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「日高」(昭和37.1)を使用したものである

在:占冠村ニニウ
地形図:ニニウ/日高
異表記:仁々宇(営林署・橋梁ほか)・新入(学校ほか)
形態:川沿いに家屋が散らばる
標高:約250m(中心部)
訪問:2014年5

 

 村の南西部、鵡(む)川およびその支流沿いにある。人家は鵡川とペンケニニウ川の合流部付近に多い。
 
村史および「角川」によると、区画殖民地として明治40年に解放された当地に、翌年白川氏・植杉氏・川島氏が入植。明治42年長谷川(のち小林と改姓、初代校長)・佐伯・石井・須甲、同43年川崎・植田・石川・日塔・梶田・星・延与・大沼の各氏が入地している。明治43年、王子製紙株式会社は占冠と鵡川の間にある森林において造材事業を開始することになり、ニニウを拠点としたため移住者が増え、20余戸の集落となった。
 初期の農業は、焼畑でアワやソバを栽培。大正期の主要農作物は、アワ・ソバ・亜麻・除虫菊・ハッカなど。入植者は農閑期と冬期には造材作業に従事。
林道完成の後は、昭和36年より甜菜の栽培を開始した。
 大正10年には伊藤氏や広永氏が木材事業で成功を収めるなど林業や造材も盛んであったが、戦後も造林ブームは続き、林業関係の居住者が増加。昭和41年国鉄石勝(せきしょう)線の紅葉山‐占冠間の建設が着工されると、これに従事する労働者も入居した。しかし森林資源が乏しくなり、鉄道工事も終了するにつれて急速に過疎化が進行。
 初期の交通は、
占冠の市街地から鵡川を渡り、鬼峠(旧)(※1)を経てペンケニニウ川に降りるといったもので、入植者はこれを利用して往来した。昭和初期、鬼峠(新)(※1)を経て初期の降り口よりも上流に降りるいわゆる「旧道」ができ、初めて馬車が通れるようになった(鵡川から鬼峠までの道は、現在でも林道として現存)。のち鵡川沿いの林道が開通し、ようやく自動車が通れるようになった。なお市街地から鵡川に架かる橋(※2)が昭和29年10月に完成するまでは、川の往来はは渡し舟によるものであった。
 
村史刊行(昭和38年)の頃の居住者は、岩淵・植田・会田・伊藤・広永・小林・大宮司・早見・石塚・伊藤・植田・会田・会田・阿部・大宮司・庄司・会田・佐藤・田中・水上・石川・増田・松山・伊藤・石塚・広永の各家。このほか昭和初期、「山の仙人」と称されニニウの山奥に隠棲した〓野朝蔵氏(〓はにんべんに真)の逸話が掲載されている。
 また
ペンケニニウ川の上流に、浅野セメント株式会社が経営する石綿鉱山があったという。軍需産業として昭和17年から採掘していたが、終戦の同21年に閉山。社宅は27戸、数百人の労働者が従事していた。 

※1 旧鬼峠は、道東自動車道の占冠トンネル付近。696.9mの三角点と南の701mの標高点の間にある鞍部。後の鬼峠は、JR石勝線の鬼峠トンネル付近。先述の三角点と北の714mの標高点の間にある鞍部
※2 本文中には「占冠橋」とあるが、現在の青巌(せいがん)橋付近か

 以下は当地にあった学校の沿革(廃校の情報は『占冠百年史』より)。

(小学校)
 明治44.11.10  私立の新入教育所開設
 大正2.4.15  公立移管。占冠中央教育所所属新入特別教授場として認可
 昭和20.6.30  独立。新入国民学校となる
 昭和22.4.1  新入小学校となる

 昭和50

 廃校

(中学校)
 昭和24.6.30  占冠中学校新入分校開校。小学校に併置
 昭和27.4.1  独立。新入中学校となる

 昭和50

 廃校

 なお石綿鉱山の集落にも私立の新入浅野小学校(※3)があり、昭和19年開校、終戦後に閉校。村立の学校よりも設備が良かったという。閉校後は校舎の一部を湯の沢に移し、校長(植山氏)は引き続き湯の沢の初代校長となっている。

※3 当時は国民学校令が布かれていた時期であったが、私立のため国民学校と称していない。ただし村史の湯の沢小学校の章においては「新入浅野国民学校」と表記されており、後に公立に移管した可能性もある

 『占冠百年史』によると、昭和35年48戸333人、同45年76戸477人、同55年40戸44人、平成2年1戸2人、同12年4戸5人。昭和41年8月14日電気導入。過疎化が進んだ昭和50年代初頭より、離農後の遊休地等を活用すべく「ニニウ自然の国」の構想が生まれた。これは一帯の豊かな自然環境に親しみながら、交流や野外活動の場を設けるといったもの。構想が本格的なものとなる以前から、昭和51年には学校跡に林間学校が開設された。刊行(平成18年)の頃の主な施設は、サイクリングターミナル(昭和59年開業。食事・入浴・宿泊もできる)・遊歩道・多目的運動広場・体験農園・キャンプ場(昭和61年完成)・サイクリングロード。

 訪問は道道にて市街地方面より。集落に入ると、かつては農家が散居していたと思われる広い平坦地が広がる。「学童農園」や「フラワー園 ハーブ園」といった看板が見られるが、現在は規模を縮小?しているニニウ自然の国の名残であるよう(写真1・2)。同地には生活の痕跡がいくらか確認できるが、人家の類はない。道道と林道の分岐にはニニウ駅逓跡の碑が建ち(写真8)、説明によると初代取扱者は小林昇之助氏、二代目は三船留七氏とのこと。さらに付近にはニニウ自然の国の看板とサイクリングターミナルがある(現在業務は停止)。ここにある絵地図には学校跡が「林間学校」の施設として描かれており、後で知るところでは最近まで旧校舎が残されていたよう(訪問時は撤去済み。写真13)。左岸のキャンプ場は道東自動車道の完成に合わせたものか、全体的に改修されたような雰囲気がある。ペンケニニウ川沿いには生活感のある家屋があり、これは在住世帯。
 なお村史に記されている鉱山集落は未訪問。

 


写真1 「学童農園」

写真2 「ニニウ自然の国 フラワー園/ハーブ園」

写真3 屋敷跡のポンプ

写真4 倒潰家屋

写真5 小屋


写真6 屋敷跡?付近。奥は道東自動車道


写真7 農地跡。新しい植林地

写真8 駅逓跡

写真9 サイクリングターミナル

写真10 ニニウ自然の国絵地図

写真11 小祠

写真12 平坦地(ペンケニニウ川沿い)

写真13 校門より学校跡地を見る

写真14 キャンプ場管理棟

 

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