御坊市の歴史



●太古〜江戸時代

 この地方には、約1万年前の先土器の時代から、人間の生活が始まっており、尾 の崎遺跡等からその時代に比定すべき石器が採集されている。
 弥生時代の前期には、初期の稲作農耕も始まっており、同時代末期とみられる製 塩用土器が多く発見されている。
 奈良時代には、大化の改新による班田収授法の条理制の遺構が湯川地区にみられ 、当時の発達した農耕社会を物話っている。
 平安時代に入り、律令体制の崩壊の中で荘園が発達し、石清水八幡宮領薗・財荘 が形成された。薗・財荘は、今日の湯川町財部島、御坊、薗、美浜町田井にあたり 、この地の大部分は条理制が施かれていた。 また、熊野三山への御幸道が、本市 を通っているが、平安末期からの上皇や貴族を中心とした熊野参詣は、鎌倉時代以 降では、武士や庶民の参詣が盛んとなり、江戸末期まで続いた。
 南北朝の内乱時には、その初期から有力な北朝方であった湯川氏は、有田及び日 高地方の領主であり、JR御坊駅北の亀山に城を構え、天正14年(1586年) に豊臣秀吉に滅ぽされるまで12代140余年にわたって居城していた。
 江戸時代に入り、文禄4年(1595年)に紀伊浅野家家臣の佐竹伊賀守が、こ の地に西本願寺の別院(日高御坊)を移築した。この頃から門前町として、本市の 都市的発展が始まったのだが、御坊の地名は、この日高御坊の門前町として発展し たことに由来している。
 この時代の産業としては、寛政2年(1790年)に第10代藩主徳川治宝の殖 産政策の中で、甘蔗(砂糖塘料)の作付が野口で進められ、周辺に広がり、また、 綿を原料とした綛糸が生産され、天保(1830年代)以降は、藤田や島が日高綛 糸中心地として活況を呈した。その他、醸造業や和紙製造、ろつそくの製造も盛ん であった。物資輸送の廻船業については、元和年代(1615年〜1623年)に は日高廻船が興り、薗浦29隻など主に江戸や近海との間に従事した。



●明治〜第二次大戦まで

 明治以降においては、産業経済関係では、農業は米が主流であったが、その他に 、麦類、葉たばこ、除虫菊、けしなどが栽培されていた。
 昭和に入り、都市化の進展とともに、主流は野菜に移り、特に昭和40年代以降 は、都市近郊型農業地滞として、生鮮野菜類の供給基地となっている。
 林業生産では特筆すべきものはないが、奥日高の森林地滞をひかえ、これに関連 して、本市はその集敵地として発展した。特に木材と日高港を中心とした移出入物 資によって、本市の商業資本を大きく蓄積させた。
 こうした産業の発展とともに、明治後期から大正年間にかけて製糸、紡績、電力 事業が興り、日高川河口に立地した紡績3工場では、社員数が2,000人を越え た。
 大正9年(1920年)には、手漉の和紙製造にかわり、旭化成和歌山工場の前 身である南海紙業が、機械製紙を始め、また、昭和3年(1928年)には養蚕熱 を背景に、片倉製糸紡績が進出した。
 戦時体制下に入ると、これらの工場は軍需工場へと転換しているが、戦後は再開 されることはなかった。しかし、当時の食料危機を反映し、甘蔗栽培や、名田では 澱粉工場が興った。




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