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  あとがき

原田 健一     

 南方熊楠が生み出したさまざまな伝説を核とした「南方ファン」と、熊楠が書き残したものとの奇妙な関係。それだけでも一つの議論の対象となるものだろうが、熊楠の資料を編纂し出版しようとするものも、その関係のなかで、編集のパースペクティブを移動させねばならなかったのは致し方のないことだったと思う。伝説のみ先行していた存在に、実際の文章をもって熊楠の仕事を発見していく作業は、伝説を裏切ると同時に、熊楠自身が望んだように伝説をより強化することでもあった。

 長谷川興蔵氏が、熊楠の何に惹かれたのか、今となっては聞くことはできないが、明らかに平凡社の全集編集前と全集刊行後では、熊楠観が大きく変わったであろうことは推測される。長谷川氏のその後の八坂書房での仕事は、そうした自らの編集のパースペクティブの重点の移動を表している。しかし、長谷川氏にとって決定的だったことは、八坂書房の『南方熊楠日記』編集中に、熊楠のアメリカ時代を再発見したことだったと思う。

 新井勝紘氏による『大日本』の発見。それに刺激されるように、『珍事評論』第一号を自ら再発見する。さらに、武内善信氏による『珍事評論』第二号の発見は、長谷川氏をして新たなパースペクティブへの移動を、用意させるものだった。残念なことに、氏にそれを新たに展開するだけの時間がなかったことが惜しまれる。(個人的には氏の男色論を読んでみたかった。)現在、平成四年より始まった南方熊楠資料研究会による、旧南方熊楠邸の調査によって新たなパースペクティブが提示できる段階に来ている。(『熊楠研究』既刊号には、新たな批判的な研究が載せられている。)

 亡くなる四ヵ月前に一度だけ会ったことしかない私が、編集・刊行の音頭をとることになった。かえってそうでないと、出来なかったかもしれないとも思うが、生前をよく知る飯倉照平氏に編集もお願いした。快くご協力をいただいた前田棟一郎、八坂安守の両氏に感謝したい。また、ご遺族の川上和一氏、わだつみ会の岡田裕之氏をはじめとする友人の方々にも、ご協力をいただいた。


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